デジタル大辞泉
「吉田奈良丸」の意味・読み・例文・類語
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よしだ‐ならまる【吉田奈良丸】
- 浪曲家。二世。奈良県生まれ。本名広橋広吉。初め花川若力と称し祭文(さいもん)を語っていたが、初世に入門。新体詩風の優美な語り口を創始。明治末期から大正初期にかけて桃中軒雲右衛門と人気を二分した。「赤穂義士伝」を得意とし、その一節をとった「奈良丸くずし」が流行した。明治一三~昭和四二年(一八八〇‐一九六七)
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吉田 奈良丸(2代目)
ヨシダ ナラマル
- 職業
- 浪曲師
- 本名
- 広橋 広吉
- 別名
- 前名=花川 力丸,吉田 小奈良丸,後名=吉田 大和之丞
- 生年月日
- 明治16年 7月21日
- 出生地
- 奈良県 下市
- 経歴
- 父は花川力山という祭文語り。16歳まで父について節の修業をしたのち、大阪に出て初代奈良丸門下に。はじめ小奈良丸を名乗り、23歳で2代目奈良丸を襲名。明治末期から大正初期にかけて、桃中軒雲右衛門、京山小円と共に三巨頭の名声を得、レコード界を席巻した一代の売れっ子となる。また優美で格調のある奈良丸節は流行り唄の“奈良丸くずし”となって全国に広まった。得意芸は「義士銘々伝」。大正6年には渡米してウィルソン大統領にも面会した。昭和4年に奈良丸の名跡を弟子の一若に譲り、吉田大和之丞と改名。関西に多くの寄席を経営して財をなし、10年京都・山科に大石神社を建立した。
- 没年月日
- 昭和42年 1月20日 (1967年)
- 家族
- 妻=春野 百合子(初代),長女=春野 百合子(2代目)
吉田 奈良丸(3代目)
ヨシダ ナラマル
- 職業
- 浪曲師
- 本名
- 炭田 嘉一郎
- 別名
- 前名=四つ目,松若,吉田 一若(ヨシダ イチワカ)
- 生年月日
- 明治31年 11月6日
- 出身地
- 和歌山県 海南市
- 経歴
- 幼少のころから浪曲に興味を持ち、小学校4年の時に街の天狗連(素人集団)の仲間に入って人気者となる。12歳で2代目奈良丸に入門し、前座名を“四つ目”、1年後に“松若”、14歳で“一若”と改名して真打ちに。その一若時代すでに師を凌ぐとの評判をとり、昭和4年には兄弟子たちを抜いて“3代目奈良丸”を襲名した。吉田宗家十八番の「義士伝」のほか、新作にも坪内博士の「桐一葉」や、行友李風の「幻滅の忠治」など多くの名品を残した関西浪曲界の大看板。3代続いた奈良丸のうちでは、舞台の品格などは随一とされる。浪曲親友協会会長を再度にわたり務め、45年引退。平成8年上方演芸に貢献した人を顕彰する“上方演芸の殿堂”に入る。
- 没年月日
- 昭和53年 11月12日 (1978年)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
吉田 奈良丸(3代目)
ヨシダ ナラマル
大正・昭和期の浪曲師
- 生年
- 明治31(1898)年11月6日
- 没年
- 昭和53(1978)年11月12日
- 出身地
- 和歌山県海南市
- 本名
- 炭田 嘉一郎
- 別名
- 前名=四つ目,松若,吉田 一若(ヨシダ イチワカ)
- 経歴
- 幼少のころから浪曲に興味を持ち、小学校4年の時に街の天狗連(素人集団)の仲間に入って人気者となる。12歳で2代目奈良丸に入門し、前座名を“四つ目”、1年後に“松若”、14歳で“一若”と改名して真打ちに。その一若時代すでに師を凌ぐとの評判をとり、昭和4年には兄弟子たちを抜いて“3代目奈良丸”を襲名した。吉田宗家十八番の「義士伝」のほか、新作にも坪内博士の「桐一葉」や、行友李風の「幻滅の忠治」など多くの名品を残した関西浪曲界の大看板。3代続いた奈良丸のうちでは、舞台の品格などは随一とされる。浪曲親友協会会長を再度にわたり務め、45年引退。平成8年上方演芸に貢献した人を顕彰する“上方演芸の殿堂”に入る。
吉田 奈良丸(2代目)
ヨシダ ナラマル
明治〜昭和期の浪曲家
- 生年
- 明治16(1883)年7月21日
- 没年
- 昭和42(1967)年1月20日
- 出生地
- 奈良県下市
- 本名
- 広橋 広吉
- 別名
- 前名=花川 力丸,吉田 小奈良丸,後名=吉田 大和之丞
- 経歴
- 父は花川力山という祭文語り。16歳まで父について節の修業をしたのち、大阪に出て初代奈良丸門下に。はじめ小奈良丸を名乗り、23歳で2代目奈良丸を襲名。明治末期から大正初期にかけて、桃中軒雲右衛門、京山小円と共に三巨頭の名声を得、レコード界を席巻した一代の売れっ子となる。また優美で格調のある奈良丸節は流行り唄の“奈良丸くずし”となって全国に広まった。得意芸は「義士銘々伝」。大正6年には渡米してウィルソン大統領にも面会した。昭和4年に奈良丸の名跡を弟子の一若に譲り、吉田大和之丞と改名。関西に多くの寄席を経営して財をなし、10年京都・山科に大石神社を建立した。
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吉田奈良丸 (よしだならまる)
浪曲家。(1)初代(?-1915(大正4)) 奈良の人。音丸門下。(2)2代(1880-1967・明治13-昭和42) 本名広橋宏吉。奈良県生れ。明治末から関西の雄として,東の桃中軒雲右衛門(とうちゆうけんくもえもん)とともに天下に並び称せられた。優美,平易な節調で人気を博し,その名調子はレコードによって全国を風靡した。得意の《義士伝》の一節は,《奈良丸くづし》という歌謡曲にまでなった。晩年は大和之丞(やまとのじよう)と改名している。(3)3代(1898-1978・明治31-昭和53) 本名炭田嘉一郎。2代門下。師の節調に渋い重みを加えた昭和の関西の重鎮として知られる。
執筆者:興津 要
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吉田奈良丸
よしだならまる
(1883―1967)
浪曲師。2代目。本名広橋広吉。奈良県生まれ。花川力丸と名のる祭文(さいもん)語りであったが、大阪に出て浮連節(うかれぶし)で一家をなしていた初代奈良丸(?―1923)に入門、才能と美声によって1902年(明治35)に2代目を襲名した。09年、「日本一吉田奈良丸」という宣伝で上京して物議を醸したが、華族会館で口演するなど、美文調の詞(ことば)遣いと上品な語り口で、豪放な桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)と人気を競った。明治末からレコードに吹き込んだ『義士伝』は当時のベストセラーで、優美な「奈良丸節」を全国的なものにした。とくに『大高源吾(おおたかげんご)』の一節は流行歌に取り入れられ「奈良丸くずし」としてヒットした。17年(大正6)の渡米に際しては、総理大臣原敬(はらたかし)の仲介でウィルソン大統領と面会するなど、国際的名士となった。
[秩父久方]
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吉田奈良丸【よしだならまる】
浪曲師の芸名。4世まである。2世〔1883-1967〕は奈良県出身。1902年襲名し,関西で活躍。東京の桃中軒雲右衛門と並んで浪曲改革にあたった。平明優美な節調をもち,義士伝を得意とし,その語り口は《奈良丸くずし》という俗曲となって流行するほどであった。
→関連項目浪曲
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吉田奈良丸(4代) よしだ-ならまる
1921-2000 昭和-平成時代の浪曲師。
大正10年7月17日生まれ。昭和6年3代吉田奈良丸に入門,茶良(ちゃら)丸を名のる。三笠をへて,46年4代奈良丸を襲名。平成8年弟子の西川幹彦が5代奈良丸の名を継ぐ。平成12年11月死去。79歳。奈良県出身。本名は吉田義明。
吉田奈良丸(2代) よしだ-ならまる
1879-1967 明治-昭和時代の浪曲師。
明治12年7月21日生まれ。祭文(さいもん)語りから初代奈良丸に入門,小奈良をへて明治35年2代奈良丸を襲名。優美な語り口は「奈良丸くずし」としてひろまり,桃中軒雲右衛門と人気をきそった。「義士伝」が代表芸。のち大和之丞(やまとのじょう)と改名。昭和42年1月20日死去。87歳。奈良県出身。本名は広橋広吉。
吉田奈良丸(初代) よしだ-ならまる
1851-1915 明治-大正時代の浪曲師。
嘉永(かえい)4年3月生まれ。生家は大和百済(くだら)村(奈良県広陵町)の農家兼たばこ問屋。壮年になってから吉田音丸に師事し,奈良丸を名のる。明治35年弟子の小奈良に名をゆずり,竹廼家養徳斎(たけのや-ようとくさい)と改名した。大正4年1月1日死去。65歳。本名は竹谷奈良吉。
吉田奈良丸(3代) よしだ-ならまる
1898-1978 大正-昭和時代の浪曲師。
明治31年11月6日生まれ。12歳で2代奈良丸に入門。松若,一若をへて,昭和4年3代奈良丸を襲名。師匠の十八番「義士伝」のほか,新作の「肉弾三勇士」などを演じ関西浪曲界の重鎮として活躍した。昭和53年11月12日死去。80歳。和歌山県出身。本名は炭田嘉一郎。
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吉田奈良丸(2世)
よしだならまる[にせい]
[生]1878. 奈良
[没]1967.1.20.
浪曲家。本名広橋宏吉。祭文 (さいもん) 語りの父について修業し,16歳で1世奈良丸に入門。 1902年2世襲名。美声と巧みな節調の義士伝物で,桃中軒雲右衛門と人気を二分した。レコード化された「奈良丸くずし」で一世を風靡し,17年渡米,国際的にも活躍。 29年名跡を弟子に譲り,以後は大和之丞を名のった。
吉田奈良丸(3世)
よしだならまる[さんせい]
[生]1898.11.6. 和歌山,海草
[没]1978.11.12. 大阪
浪曲家。本名炭田嘉一郎。 12歳で2世吉田奈良丸に入門,一若を名のる。 1929年3世襲名。品格のある節調で『赤穂義士伝』を十八番にしたほか,坪内逍遙の『桐一葉』,行友李風の『幻滅の忠治』など新作も手がけた。
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吉田 奈良丸(3代目) (よしだ ならまる)
生年月日:1898年11月6日
大正時代;昭和時代の浪曲師
1978年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の吉田奈良丸の言及
【浪花節】より
…以後,春日井松之助を頭取(とうどり)とした〈東京浪花節組合〉,井上晴夢を取締役とする関西うかれ節組合〈愛国社〉とが設立され,浪花節は隆盛の一途をたどったが,とくに日露戦争後は,忠君愛国をテーマとすることで国粋主義の時流に乗って大発展をとげた。この近代浪曲確立期の推進力となったのは,[桃中軒雲右衛門](とうちゆうけんくもえもん),[吉田奈良丸],[京山小円](こえん)の三巨人だった。雲右衛門は,諸国放浪ののち,豪放雄健な節調を確立し,台本も整備し,《義士伝》をはじめとして演題も選択して,品位ある高座によって浪花節の社会的地位を向上させた。…
※「吉田奈良丸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」