桃中軒雲右衛門(読み)トウチュウケンクモエモン

デジタル大辞泉 「桃中軒雲右衛門」の意味・読み・例文・類語

とうちゅうけん‐くもえもん〔タウチユウケンくもヱモン〕【桃中軒雲右衛門】

[1873~1916]浪曲師。茨城の生まれ。本名、岡本峰吉。門付け芸にすぎなかった浪曲(浪花節)を、大劇場で通用する芸に高めた、浪曲中興の祖。宮崎滔天みやざきとうてんらと交わり、浪曲によって武士道を鼓吹した。

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精選版 日本国語大辞典 「桃中軒雲右衛門」の意味・読み・例文・類語

とうちゅうけん‐くもえもんタウチュウケンくもヱモン【桃中軒雲右衛門】

  1. 浪曲家。本名岡本峯吉。茨城県出身。旅回りうちに修業し、明治三九年(一九〇六)、東京本郷座での「義士銘々伝」により人気を得た。浪曲の社会的地位の向上にも力を尽くす。明治六~大正五年(一八七三‐一九一六

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「桃中軒雲右衛門」の解説

桃中軒 雲右衛門
トウチュウケン クモエモン


職業
浪曲師

本名
山本 幸蔵

別名
前名=吉川 小繁,吉川 繁吉(2代目)

生年月日
明治6年 10月25日

出身地
茨城県 結城市

経歴
芸人一家に生まれ、幼い頃から旅まわりの祭文語りだった父・吉川繁吉について地方巡行。父の死後、明治29年2代目繁吉を襲名。のち三河屋一の弟子となり、青年浪花節語りとして名を馳せる。31年桃中軒雲右衛門と改名。33年雲調を創始。宮崎滔天、また右翼壮士の後援により人気を高める。40年東京・本郷座で「忠臣蔵銘々伝」を口演。全国的な人気を得る。45年歌舞伎座出演。その後浪曲に琵琶・浄瑠璃・清元等の節調をとり入れ浪花節を完成、その普及に努め、浪曲史上に大きな足跡を残した。

没年月日
大正5年 11月7日 (1916年)

家族
父=吉川 繁吉(祭文語り),孫=中岡 俊哉(作家)

伝記
“声”の国民国家―浪花節が創る日本近代定本日本浪曲史著作権を確立した人々―福沢諭吉先生、水野錬太郎博士、プラーゲ博士…“声”の国民国家・日本浪花節繁昌記 兵藤 裕己 著正岡 容 著,大西 信行 編大家 重夫 著兵藤 裕己 著大西 信行 著(発行元 講談社岩波書店成文堂日本放送出版協会小学館 ’09’09’04’00’98発行)

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改訂新版 世界大百科事典 「桃中軒雲右衛門」の意味・わかりやすい解説

桃中軒雲右衛門 (とうちゅうけんくもえもん)
生没年:1873-1916(明治6-大正5)

浪曲家。本名岡本峰吉。茨城県生れ。祭文(さいもん)語りの父吉川繁吉について修業し,小繁から父の芸名を継いだ。のち桃中軒雲右衛門となって琵琶や清元の節調を加味した荘重豪快な節を創始し,従来の浪曲家にみられた野卑な演題を整理し,台本を作成して内容を高めた。関西,九州と巡業して人気を集め,1906年に東京本郷座において赤穂浪士を題材とする《義士銘々伝》を口演して満都の注目を集め,12年には歌舞伎座でも独演会を開いて満員の客を呼んだ。得意とした《義士銘々伝》などによって武士道を鼓吹して浪曲の格式を向上させ,大道芸として低級視されてきた浪曲(浪花節(なにわぶし))の社会的地位を高めた。雄渾荘重な雲右衛門節を確立し,関東節の祖として,関西の重鎮2代吉田奈良丸とともに浪曲史上に大きな足跡を残した。晩年はトレードマークの長髪を切り,雲入道と称して風格ある高座を展開していたが,肺結核のために44年の生涯を終えた。その生涯はのち真山青果などによって劇化されている。
浪花節
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桃中軒雲右衛門」の意味・わかりやすい解説

桃中軒雲右衛門
とうちゅうけんくもえもん
(1873―1916)

浪曲師。本名岡本峰吉。上州祭文(さいもん)の黒繁(くろしげ)こと吉川繁吉の次男として群馬県に生まれる。小繁と名のり東京・浅草の掛け小屋で人気をとったが、父の死後、名跡を継いで浪花節(なにわぶし)へ転向した。1898年(明治31)、市川梅車(ばいしゃ)一座に客演中、梅車の妻でお浜という三味線の名手と駆け落ちして関西へ去る。その後九州まで放浪し、孫文とも親交のあった壮士宮崎滔天(とうてん)らと知り合い、その後援を得て、忠臣蔵を題材に台本を整備し、伴奏も関西風な水調子に九州系の琵琶(びわ)の手を加味して芸風を一新、名も桃中軒雲右衛門と変え、ついに九州で第一人者となった。

 1907年(明治40)3月の関西公演で成功、その勢いにのって同年6月、東京・本郷座で「武士道鼓吹」の看板の下に、27日間『義士銘々伝(めいめいでん)』を口演し続けて大成功を収めた。テーブル掛けで覆った机の前に立って口演するというこのときの演出方法は、その後の浪曲界の興行形態に大きな影響を与えた。13年(大正2)相三味線でもあったお浜が肺結核で没したあと、雲右衛門も急速に衰えをみせて、以後新作を発表することなく、大正5年11月7日、同じ病で没した。

[秩父久方]

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20世紀日本人名事典 「桃中軒雲右衛門」の解説

桃中軒 雲右衛門
トウチュウケン クモエモン

明治・大正期の浪曲師



生年
明治6年10月25日(1873年)

没年
大正5(1916)年11月7日

出身地
茨城県結城市

本名
山本 幸蔵

別名
前名=吉川 小繁,吉川 繁吉(2代目)

経歴
幼い頃から旅まわりの祭文語りだった父・吉川繁吉について地方巡行。父の死後、明治29年2代目繁吉を襲名。のち三河屋一の弟子となり、青年浪花節語りとして名を馳せる。31年桃中軒雲右衛門と改名。33年雲調を創始。宮崎滔天、また右翼壮士の後援により人気を高める。40年東京・本郷座で「忠臣蔵銘々伝」を口演。全国的な人気を得る。45年歌舞伎座出演。その後浪曲に琵琶・浄瑠璃・清元等の節調をとり入れ浪花節を完成、その普及に努め、浪曲史上に大きな足跡を残した。

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朝日日本歴史人物事典 「桃中軒雲右衛門」の解説

桃中軒雲右衛門

没年:大正5.11.7(1916)
生年:明治6(1873)
明治後期の浪曲師。地方回りの祭文語り吉川繁吉の子で,北関東の生まれ。本名は岡本峰吉。前名は小繁,繁吉。明治36(1903)年宮崎滔天や玄洋社の後援で「義士伝」を完成し,武士道鼓吹を旗印に九州を席捲。40年には東上して大阪,京都,続いて東京の本郷座などで大入りをとる。「三段流し」といわれた息の詰んだ豪快な語り口が,寄席芸であった浪曲の劇場進出を可能にした。同時に「義士伝」は浪曲界の一大主流となり,浪曲そのものも社会の各階層へ急速に浸透する。のち剃髪して雲右衛門入道と称した。なお「南部坂後室雪の別れ」や「赤垣源蔵徳利の別れ」を吹き込んだ45年,そのレコードが無断でコピーされ「雲右衛門音譜事件」となり,法的保護のなかった揺藍期レコード産業を揺るがした。レコード全種目のなかで浪曲が最大の比重を占めていた時代であった。<参考文献>倉田喜弘『明治大正の民衆娯楽』

(倉田喜弘)

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百科事典マイペディア 「桃中軒雲右衛門」の意味・わかりやすい解説

桃中軒雲右衛門【とうちゅうけんくもえもん】

浪曲師。本名岡本峰吉。北関東出身。祭文語りであった父について修業。武士道鼓吹を標榜し,勇壮な雲右衛門節を創始。1907年東京本郷座で浪曲を口演して1ヵ月間満員の記録をつくった。美声と総髪紋服姿が人気を呼び,《義士伝》を得意とした浪曲界の革命児。
→関連項目吉田奈良丸浪曲

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桃中軒雲右衛門」の意味・わかりやすい解説

桃中軒雲右衛門
とうちゅうけんくもえもん

[生]1873. 群馬,高崎
[没]1916.11.7. 東京
浪曲家。本名山本幸蔵。旅回りの祭文 (さいもん) 語りの父について横浜,京都,九州各地を巡演し,1907年東京本郷座で『忠臣蔵銘々伝』を口演して成功,浪花節を東京の大劇場に進出させた。琵琶や浄瑠璃,清元などを取入れて,いわゆる「雲調」を生み出し,また武士道の鼓吹を標榜,『赤穂義士伝』を得意とした。在来の浪花節を整理統合して,その地位を高めた功績は大きい。なお,真山青果作の戯曲に『桃中軒雲右衛門』 (1927) がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桃中軒雲右衛門」の解説

桃中軒雲右衛門 とうちゅうけん-くもえもん

1873-1916 明治-大正時代の浪曲師。
明治6年10月25日生まれ。祭文(さいもん)語りの父(芸名吉川繁吉)のもとで修業,吉川小繁,2代繁吉を名のる。関西,九州で名をあげ,桃中軒雲右衛門と改名。明治40年東京の本郷座に出演,「義士銘々伝」が大評判をよぶ。歌舞伎座にも出演,浪曲の社会的地位をたかめ,浪曲中興の祖とされる。大正5年11月7日死去。44歳。群馬県出身。本名は山本幸蔵。

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デジタル大辞泉プラス 「桃中軒雲右衛門」の解説

桃中軒雲右衛門

1936年公開の日本映画。監督・脚色:成瀬巳喜男、原作:真山青果、撮影:鈴木博。出演:月形竜之介、細川ちか子、千葉早智子ほか。

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367日誕生日大事典 「桃中軒雲右衛門」の解説

桃中軒 雲右衛門(初代) (とうちゅうけん くもえもん)

生年月日:1873年10月25日
明治時代;大正時代の浪曲師
1916年没

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世界大百科事典(旧版)内の桃中軒雲右衛門の言及

【浪花節】より

…以後,春日井松之助を頭取(とうどり)とした〈東京浪花節組合〉,井上晴夢を取締役とする関西うかれ節組合〈愛国社〉とが設立され,浪花節は隆盛の一途をたどったが,とくに日露戦争後は,忠君愛国をテーマとすることで国粋主義の時流に乗って大発展をとげた。この近代浪曲確立期の推進力となったのは,桃中軒雲右衛門(とうちゆうけんくもえもん),吉田奈良丸京山小円(こえん)の三巨人だった。雲右衛門は,諸国放浪ののち,豪放雄健な節調を確立し,台本も整備し,《義士伝》をはじめとして演題も選択して,品位ある高座によって浪花節の社会的地位を向上させた。…

【南部坂雪の別れ】より

…講談,浪曲の演目。もともとは,講談の《義士外伝》の一編として読まれていたものを,浪曲中興の祖といわれる桃中軒雲右衛門(とうちゆうけんくもえもん)が口演してより,浪曲の人気演目となり,2代吉田奈良丸,2代東家楽遊(あずまやらくゆう)などが十八番として売った。大石良雄が,仇討の前日,雪の降りしきるなか江戸赤坂は南部坂付近に隠遁していた瑶泉院を訪れ,それとなく別れを告げて立ち去る一席物。…

※「桃中軒雲右衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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