さい‐もん【祭文】
〘名〙
① 祭の時に、神仏に告げることば。独特の節をつけて読む。祭詞。祝詞(のりと)。さいぶん。
※続日本紀‐延暦六年(787)一一月甲寅「祀二天神於交野一、其祭文曰」
※枕(10C終)二五八「ことばなめげなるもの、宮のべのさいもん読む人」
② 門付
(かどづ)け芸。神仏に祈願する時の文章が、信仰を離れて娯楽本位となり歌謡化したもの。鎌倉時代以後、山伏が錫杖
(しゃくじょう)や
法螺貝(ほらがい)を伴奏にして全国に広め、のちに門付け芸の一つとなった。
歌祭文。元祿(
一六八八‐一七〇四)になると、
三味線を伴奏にして心中事件などを直ちによみこんだ歌祭文が流行し、
浄瑠璃に大きな影響を与えた。明治以後は
浪花節(なにわぶし)に発展。〔人倫訓蒙図彙(1690)〕
※浮世草子・浮世栄花一代男(1693)四「其後下人ともつくり山伏になってしらこへのさいもん」
[語誌](1)古くは祭、神事、仏事の時などに神仏に対する祈願や祝詞として用いられる願文であり、「告文
(こうもん)」ともいい、仏教に限らず、神道、儒家、修験道などでも行なわれていた。
(2)平安時代には
陰陽道の色彩も帯びて宗教的色彩が強く、中世に入って修験者や巫女などによって全国に広められる一方、山伏修験者による祭文は、信仰を離れて娯楽的なものになり、その曲節も声明
(しょうみょう)の影響を受けて次第に歌謡化していった。
(3)近世に入ると歌謡化の傾向はさらに強まり、元祿期には心中、犯罪などの話題を取り入れた「歌祭文」が流行して、その歌詞は瓦版として売り出された。近松作品を始めとする
一連の
世話浄瑠璃は、この歌祭文に多くの影響を受けたといわれる。
さい‐ぶん【祭文】
〘名〙 死者を哀悼したり、
雨乞いや邪鬼を駆逐したりするために、祭のときによみあげる文。「
文選‐第六〇巻」に「祭文」の項があり、死者を悼む文を収録している。さいもん。
※
江戸繁昌記(1832‐36)初「一宿儒来り、再拝稽首して、一紙の祭文を捧す」 〔
文体明弁‐祭文〕
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉
「祭文」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
祭文
さいもん
神祭りのときに奏上する文詞。わが国の神祇(じんぎ)に奏するものを一般に祝詞(のりと)と称するが、祭文とも称することがあった。祝詞文を祭文と称した例(中臣(なかとみ)祭文、宮咩奠(みやのめのまつり)祭文)、祝詞文と漢文とを混交した例(儺(ついな)祭の祭文)、中国風の祭祀(さいし)についての例(釈奠(せきてん)の祭文、天子が行う天地の祭である郊祀(こうし)の礼の祭文)などが古代から中世にかけてみえる。中世以降になると、陰陽師(おんみょうじ)、修験者(しゅげんじゃ)、巫女(みこ)などの手により、山伏祭文、歌祭文(うたざいもん)、説経祭文などとして民間に広まった。また近世には、儒葬による葬儀で、死者を弔う祭文をあげる例もあった。なお、天皇が神宮・神社・山陵等に勅使を遣わして奏上したものを宣命(せんみょう)と称したが、1873年(明治6)これを御祭文(ごさいもん)と改称して今日に至っている。
[牟禮 仁]
祭文の内容は、まず神の降臨を請い、次に降臨した神に願うべき趣旨を述べ、さらに神がその願いを聞き、事が成就(じょうじゅ)したときには何を奉納するか、などを約束する文言の続くこともある。これはいわば自己の祈願の当否の判断を神にゆだねたもので、これを天判(てんぱん)祭文とよび、起請文(きしょうもん)の一つの源流となった。のちに祭文は、独得の節のおもしろさから、信仰を離れて歌謡化し、江戸時代には「祭文語り」によって三味線や法螺貝(ほらがい)にあわせて歌われる歌祭文がもてはやされた。
[千々和到]
神仏混淆(こんこう)のわが国では、宗教行事の俗化のなかで、祭文はすでに平安時代から芸能化の傾向があった。祭文俗化の担い手は、山伏修験の者たちで、中世にはかなり俗化が進み、近世に入って娯楽的な歌祭文となり、ついに「歌祭文」を「祭文」と略称するようになった。元禄(げんろく)期(1688~1704)には完全に芸能化して、享保(きょうほう)期(1716~36)に全盛時代を迎えた。山伏出立(いでた)ちの者が錫杖(しゃくじょう)を打ち振り、法螺貝を口にして語り、歌祭文では三味線を加えたものもあった。祭文には「謹請(きんじょう)再拝」「抑々敬白(そもそもうやまってもうす)」「祓(はら)ひ清んめ奉る……敬って申す」などの型があり、長く踏襲された。元禄時代には世俗のニュースも採用し、「色祭文」「心中(しんじゅう)祭文」ともよばれて一種の「くどき」の調子も生じた。『八百屋(やおや)お七』『お染久松』『おさん茂兵衛(もへえ)』『小三(こさん)金五郎』『お初徳兵衛』『お千代半兵衛』『お夏清十郎』『おしゅん伝兵衛』を八祭文といった。
歌祭文の節(ふし)回しは声明(しょうみょう)から出たもので、白声(しらごえ)という発声による独特の語物であった。門付(かどづけ)も行い、法螺貝で「デロレンデロレン」と合の手を入れたので、「でろれん祭文」「貝祭文」ともいわれた。歌祭文は盆踊唄(うた)に影響を与え、さらに説経浄瑠璃(じょうるり)と結合して説経祭文となり、寄席(よせ)演芸にもなった。また、ちょんがれ(ちょぼくれ)、阿呆陀羅経(あほだらきょう)から浮かれ節となり、やがて浪花節(なにわぶし)を生むに至った。
[関山和夫]
『五来重編『日本庶民生活史料集成 第17巻 民間芸能』(1972・三一書房)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
普及版 字通
「祭文」の読み・字形・画数・意味
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
祭文 (さいもん)
歌謡の一種。本来,祭りのときなどに神仏に対して祈願や祝詞として用いられる願文であったが,のちに信仰を離れて芸能化した。祭文の最も古い例は《続日本紀》にみえ,平安時代には陰陽道の色彩の濃いものが知られる。中世になると修験者に受け継がれ,巫女などの手にも渡って全国に広められた。そのころのものとして奈良元興寺極楽坊にあった〈夫婦和合離別祭文〉や京都広隆寺の〈牛祭祭文〉,三河地方山間部の花祭の祭文,高知県物部村(現,香美市)の〈いざなぎ流祭文〉,中国地方の神楽に演じられる〈五行祭文〉などが知られる。山伏修験者による祭文は声明(しようみよう)などの影響を受け,錫杖(しやくじよう)や法螺貝を伴奏に歌謡化するが,さらに近世に入ると下級宗教者の零落によりいっそうの芸能化が進む。山伏や願人坊主(がんにんぼうず)がその奉ずる神の本地や縁起を説く祭文や,宗教色の濃い唱導祭文をもって諸国を回遊する一方,当意即妙の諧謔を交えたもじり祭文や若気(にやけ)祭文も喜ばれた。下世話なニュースを口説調に詠み込んだ歌祭文,説経節と祭文を組み合わせた説経祭文,下層民と結びついて命脈を保った本流の門付祭文など江戸中期以降その種類も増えるが,これらに共通する特色は〈抑(そもそも)勧請おろし奉る〉などと祭文形式を踏んでいて,錫杖を短くした金杖(きんじよう)や法螺貝を伴奏に使うことである。幕末に生まれた浪花節や口説(くどき)音頭の一種である江州音頭,河内音頭なども祭文の系統を引いたものである。
執筆者:山路 興造
祭文 (さいぶん)
jì wén
中国,漢文の文体の一種。祭時に誦される文章で,死者をとぶらうもののほか,雨乞い,求福,攘災を目的とするものがある。とくに重要なのは死者への哀悼を示すもので,多く生前親しい交誼のあった人によって書かれる。死者の生前の言行をたたえ,哀傷の意をこめる。文中しばしば〈嗚呼哀哉(ああかなしいかな)〉の句が繰り返されることが多い。唐の韓愈の作品はことに有名。散文体のもの以外に,韻文体のものもある。
執筆者:興膳 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
祭文【さいもん】
宗教的な儀式において,神仏に向かって読み上げる言葉。歌謡の一種。音楽的に作曲されていることもある。後には世俗的・娯楽的な内容の祭文が作られ,修験(しゅげん)僧,あるいは下層芸能民の中にこれを職とする者が出るようになった。また江戸時代になると,三味線を伴奏に使う歌祭文が成立して人気を博し,義太夫節にその旋律が取り入れられるなど,各種音楽にも影響を与えた。また,関西方面では特に盛んで〈難波(なにわ)ぶし〉と称し,のちの浪花節の名の起りとなった。→願文/声明
→関連項目門付|紀伊の国
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
祭文
さいもん
門付芸 (かどづけげい) の一種。もとは神祀の曲詞をさしたが,中世以後,山伏が法螺貝や錫杖に合せて語り歩いた山伏祭文 (もじり祭文) にいたって門付芸となった。江戸時代には,三味線に合せ,『お染久松』『八百屋お七』のような恋愛,心中などのニュース種を語る歌祭文が流行したが,そのなかから説経節と結んだ説経祭文,地方の盆踊りに入った祭文音頭,浪花節の祖となった「でろれん祭文」などが出てきた。
祭文
さいぶん
Ji-wen
中国,文体の一種。死者の葬祭にあたって,その思い出を綴りつつ,哀悼の意を表わすもの。また,天地の神祇を祭るときに誦するもの。六朝時代以降,押韻するのが通常で,4字句,6字句を基調とするものが多いが,唐に入って古文運動が興ってから,韓愈の『十二郎を祭る文』など,純粋の散文でもつくられるようになった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報