日本大百科全書(ニッポニカ) 「同潤会アパート」の意味・わかりやすい解説
同潤会アパート
どうじゅんかいあぱーと
関東大震災(1923)後に、財団法人同潤会が建設した、鉄筋コンクリート構造の集合住宅。同潤会は関東大震災の翌年、内務省が、義捐金(ぎえんきん)を元に設立したもので、被災者のための仮設住宅や木造住宅の建設を行った。
1926年(大正15)から34年(昭和9)にかけて、中之郷(墨田区)、代官山(だいかんやま)(渋谷区)、青山(渋谷区)、柳島(やなぎしま)(墨田区)、山下町(横浜市中区)、平沼町(横浜市神奈川区)、三田(みた)(港区)、三ノ輪(みのわ)(荒川区)、鶯谷(うぐいすだに)(荒川区)、上野下(台東区)、清砂通(きよすなどおり)(江東区)、虎ノ門(とらのもん)(千代田区)、住利(すみとし)共同住宅(江東区)、大塚女子(文京区)、東町(江東区)、江戸川(新宿区)の計16か所に建設されており(竣(しゅん)工順、( )内は現在の地名)、総住戸数は約2800戸。日本初の本格的な耐震耐火構造をもつだけでなく、集会室や中庭などを備えた先進的な設計が行われていて、その後建設された日本の集合住宅に大きな影響を与えた。1941年(昭和16)に同潤会が解散した後は住宅営団に、第二次世界大戦後の一時期東京都に管理が引きつがれた後、居住者に払い下げられた。ただし、働く女性のために建てられた大塚女子アパートだけは、東京都の管理下に残された。
建物が老朽化し、また戦争により被害を受けた建物もあったことから、1980年代以降再開発が進められた。建築史や生活文化史において記念碑的な価値をもつため、アパートの保存や再生を求める運動もあったが、2003年(平成15)には青山、江戸川、清砂通、大塚女子アパート、2009年には三ノ輪アパートが取り壊され、最後まで残っていた上野下アパートも2013年に解体された。
[編集部]
『宮沢小五郎編『同潤会十八年史』(1993・青史社)』▽『佐藤滋他著『同潤会のアパートメントとその時代』(1998・鹿島出版会)』▽『『同潤会アパートメント写真集』(2000・建築資料研究社)』