一般には複数の住戸が集合して1棟を構成する住宅をいう。他の住戸に接合せず1戸が独立している独立住宅と対置されるものであるが,独立住宅の中でも一団として計画され建設されたものは集合住宅に含むこともある。集合住宅と関連して共同住宅,集団住宅などの呼名もあるが,共同住宅は複数の住戸が階を重ねて集合して1棟を構成する形式のものをいい,これに対して各戸が地面に接しているものは連続住宅という。共同住宅のことをアメリカではアパートメントハウスapartment house,イギリスではフラッツflatsという。日本でいうマンションは分譲方式の中高層共同住宅の俗称である。独立住宅,連続住宅,共同住宅が数棟以上一団となって建設されたものが集団住宅で,団地は集団住宅地の通称である。
人類の歴史のうえで,連続住宅の出現は前3千年紀にさかのぼる。共同住宅としては,古代ローマに7~8階建ての高層アパートがあった。中世の城壁都市では,高密度な居住空間と近隣単位の構成などの特徴が見られる。日本では,平安時代末期の12世紀中ごろに町屋が一つの建築的類型として成立しており,これが集合住宅の始まりと考えられる。ただし,中世までの町屋は小規模で粗末なつくりのものであった。中世末から近世になると本格的な町屋が出現し,この中には,例えば奈良県橿原市今井町に残る町屋のように,群を形成して現存するものもある。近世になると,大都市では流通経済の発展に伴って貸家の長屋が出現する。しかし,これらはほとんどが零細な経営によるものであった。
→住居
近代的集合住宅の発展は,産業革命に伴う新しい労働者階級の出現に源を発する。人口の急激な都市集中ははなはだしい住宅不足をきたし,労働者の住宅はひどい居住状態となって社会問題化した。また,営利目的の低劣な住宅の大量供給は都市問題に広がっていった。これに対し,当初は取締規制による対応がなされたが,政府と資本家は救済,あるいは融資政策をとる必要に迫られ,さらに公による住宅供給がなされるようになる。近代の集合住宅はこれと歩を合わせて発展してきたのである。
産業革命のもっとも早く進んだイギリスでは,19世紀中ごろから不良住宅の取締り(1851),労働者住宅の総合立法(1890)などの法制度の整備が進められ,また当時,大都市の病弊を取り除く提案としてE.ハワードによって田園都市の構想が描かれている。その後,第1次世界大戦後からは本格的な公営住宅の供給が始まった。
日本では明治中ごろになって都市の社会問題,住宅問題が表面化したが,公の対策は建築取締行政にとどまっていた。公的住宅供給は1910年代から始まるが,木造の長屋が主体で供給量も限られていた。集合住宅を組織的に建設し供給し始めたのは同潤会である。同潤会は関東大震災の罹災者救済のための義捐金をもとに設立され(1924),震災後の住宅難に対処するための住宅供給を行うかたわら,鉄筋コンクリート造アパートを普及させていった。アパートの建設戸数約2500戸はそれほど多くはないが,江戸川アパート(1934)などいくつかの代表的アパートを残している。
1930年代になると,海外の文献が多く紹介され,住宅地計画理論の研究が盛んになる。C.A.ペリーの近隣住区理論(1929)は住宅地のまとまりの大きさと段階構成の考え方を示したものであり,日照と隣棟間隔の問題を扱ったL.ヒルベルザイマーの日照論の研究(1936)とともに,以後の集団住宅地の計画に大きな影響を与えた。また,ダメルシュトックにおけるW.グロピウスの住宅競技設計当選案(1929)は,個の均質性と平等性の主張のもとに平行配置を提案したものであり,従来の街区構成に慣れた目には新鮮な驚きを与えた。
日本でも同潤会の改組に伴って設立(1941)された住宅営団は,これらの近代合理主義計画理論を基礎に住宅地計画の基準を整備していった。しかし,第2次大戦が深まるとともに住宅供給はほとんど停止してしまい,理論の開花は戦後のことになる。なお,住戸計画に関しては西山夘三の食寝分離論(1943)が発表されている。
1945年の終戦にあたって,日本における住宅不足は420万戸といわれた。戦後の復興期を通じて,46年から公営住宅の供給が始まり,次いで住宅金融公庫法(1950),公営住宅法(1951)が制定された。さらに55年には,広域的な大都市圏の住宅需要にこたえて,大規模な宅地開発を行い大団地の住宅建設を行うものとして日本住宅公団が発足,1000~5000戸の団地を次々に開発し,60年代に入ると,自治体と協力して人口10万人をこすニュータウンを建設するようになる。これらの団地は4~5階建ての中層住宅を主体として郊外住宅地を形成し,昭和期の住宅地の一つの典型をつくったといえる。
これらの団地は,短期間に大規模な住宅地を建設したために,都市機能上,社会学上いくつかの問題点をはらんでいたが,住宅需要にこたえ,良好な住環境を保ちつつ市街化を促進していった意義は大きい。また,これらの団地建設を通じて,配置計画やコミュニティ施設の計画などの団地構成の技術のほかに,住戸の規格化,住宅生産の工業化などの技術が大きく発展した。
高層住宅は,低中層住宅と同程度の密度ならより広々としたオープンスペースを確保でき,緑と太陽に恵まれた都市を形成できる。このような考え方にたって,古いパリ市街をまったく新しい高層住宅群に置き換えようとした提案がル・コルビュジエのパリ改造計画(1922)であった。この考え方は,1棟ではあったがユニテ・ダビタシオンと呼ばれるマルセイユの高層アパート(1950)で実現された。日本でも戦後の代表的な高層住宅である晴海高層アパート(1958)が建てられ,住宅の高層化が論議されるようになった。1960年代後半からは市街地の工場移転に伴う跡地が住宅地として再開発されるようになり,ここに日本でも高層住宅団地が建設されるようになる。これは高層住宅数棟単位の面的な広がりをもつ再開発なので,面開発団地と呼ばれている。面開発団地は,公共性の強いオープンスペースを確保して都市防災に寄与するなどの意義はあったが,高地価による高密度化の要請によって日照条件などの居住性の水準低下がみられ,周辺既成市街地とのなじみが悪いなどの批判もあった。
70年代になると,広島基町高層住宅,川崎河原町団地などの日本の代表的な高層住宅が現れるが,高層住宅の立地に適した大規模な敷地は少なくなり,73年の石油ショックを契機に集合住宅の主流は再度低中層住宅に移行していく。
公団住宅の大量空家の発生は,住宅の量的充足とより質の高い住宅への需要を端的に示すものであった。これに呼応して住宅の規模拡大がはかられ,集合住宅の計画も変化していく。新たな住宅需要は,日本人が従来慣れ親しんできた土地に接する住宅を求めるようになるが,一方で地価の値上りによる高密度化の要請が進み,ここに俗にタウンハウスと呼ばれる連続住宅の一形式を生み出した。これは,専用の庭を極力小さくして共用部分にまわし,増築などによる環境の改変を防ぎ,高密度条件のもとで良好な住環境の維持をはかったものである。一方,従来の中高層住宅の見直しから,各戸に屋上テラスを設け階段や通路の形式をくふうした,準接地型と呼ばれる共同住宅の形式も登場する。また,民間企業による集合住宅建設も目だつようになり,需要に対応して設計上の配慮もきめ細かなものになってくる。ただし,これらの集合住宅設計の展開とは裏腹に,計画上の基本的部分での問題点はむしろ増幅されている面がある。高密度化の要請は,住戸間口をきりつめ外気に直接面さない部屋をつくって住戸の間取りをゆがめ,屋外空間の伸びやかな広がりを欠く傾向を強めている。また,分譲形式の一般化にもかかわらず,これに対応した住宅の維持・管理の方策はまだ整っていない。一方,おもに新開発を対象として開発されてきたさまざまな集合住宅の計画技法を,これからの市街地整備に有効に導入していくことも今後の課題である。
集団住宅地計画の意義と内容は,開発主体や立地によっても異なるが,開発規模によるところが大きい。開発規模による違いはおおむね次のように分類できる。
(1)小規模団地 住宅戸数が数十戸程度の団地では集団住宅地としてのまとまりは形成しにくい。共同施設として独自にもてるのは幼児遊園程度に限られ,計画の主題は住戸の居住性の確保に限定されることが多い。周辺の都市基盤に依存して市街地の空地を充てんするものとして建設される例が多いが,より大きな地域の一部を構成するような配慮が望まれる。例えば,数十戸単位の低層集合住宅団地は,既存の市街地との調和をはかりつつ徐々に地域の住環境を整備していく一手法として有効であろう。(2)中規模団地 数百戸程度の団地は日常生活上一つのまとまりを形成しうる大きさであり,集団住宅地として一つのまとまりある設計が可能である。共同施設として,児童公園,集会所,幼稚園,保育所,診療所,近隣店舗などの成立が可能であり,これらの配置とともに集団形成を配慮した住戸・住棟群の構成が計画上の課題になる。まとまりが形成しやすく,周辺に対する影響も適度であることから,都市郊外の開発や市街地の再開発の一部として適当な開発規模である。(3)大規模団地 2000戸程度の団地は小学校の学区の規模に相当し,従来近隣住区と呼ばれる単位である。集団形成上の段階構成が必要であり,近隣住区理論では,近隣住区(2000戸程度),近隣分区(500戸程度),隣保区(100戸程度),の構成と,それぞれの中心に小学校,日用品店舗,幼児遊園を設置することが提案されている。ただし,よりにぎわいのある住宅地をつくるためにセンターを集中化する考え方もある。大規模団地の開発は,周辺に対して都市機能上,社会学上の急激な変化を及ぼすので,都市計画との連携がより重要な意味をもつ。なお,近隣住区が数個集まったものであれば,人口は2万人以上となり,独立して計画されれば一つの小都市を形成する。いわゆるニュータウン開発がこれにあたるが,このような大規模な開発は都市計画,あるいは地域計画の一環として位置づけられる。
→都市計画
集団住宅地の密度は,敷地の地価,目標とする居住性の水準,上位の都市計画などから設定される。また,密度は集合住宅の形式や配置などの住宅地空間の基本的構成を規定するところが大きく,集合住宅の計画上の重要な条件になる。集団住宅地の密度のもつ意味は開発規模によって異なるが,住戸数が数十~数百の群を対象とした場合,公共施設や公園や幹線道路を除いた住宅用地に対する密度として示すことが多い。また,建築の密度は戸数密度(1ha当りの戸数)や容積率などによって表される。日本の例では戸数密度は独立住宅で15~40戸/ha,連続住宅で50~80戸/ha,中層住宅で80~150戸/ha,高層住宅で100~300戸/ha程度のものが多い。この値は欧米諸国の事例に比べて高密度であり,とくに高層住宅でその差が大きい。また,日本の昭和30年代ころと50年代の事例を比較すると,一般的傾向として戸数密度はあまり変わらないが,50年代で住戸規模が2倍近くになっている。つまり,同一の集合住宅の形式で50年代の事例の容積率は2倍近くになっている。
集合住宅は建物と土地の共同化の程度によって独立住宅,連続住宅,共同住宅の三つに大別される。独立住宅は1戸ごとに区画された敷地にそれぞれ独立に建てる形式で,それ自体は集合住宅でないが,集団的に建設された場合は集合住宅の一種と考えられる。連続住宅は数戸の住宅を連続して1棟として建てる形式である。2戸が連続したものは,とくに2戸建住宅として区別される。これらは独立住宅と同様に各戸が土地に接しているので接地型住宅とも呼ばれる。連続住宅は各戸ごとに画地(区画された敷地)をもつのが一般的であるが,これを共同化するものもある。共同住宅は階を重ねて住宅を積み重ねた形式で,土地も共同化される。積層住宅と呼ばれることもある。共同住宅では各戸が地面から離れるが,これに屋上テラスを設けるなどして接地型住宅に近い性能をもたせようとしたものもある。これは準接地型住宅と呼ばれている。
高さによる分類は密度や構造形式と直接関係するので,集合住宅の分類として基本的である。階数によって低層,中層,高層に分類される。階数の区分に定説はないが,一般には次のように分けられている。
(1)低層住宅 1~2階建てで,一般に独立住宅,または連続住宅となる。密度は低く限定されるが,構造,設備の点ではもっとも簡便で郊外団地などの低密度開発に適する。また,周辺とのなじみのよさから,市街地内部の小規模団地にもよく用いられる。(2)中層住宅 3~5階建てで一般に共同住宅となる。エレベーターなしで歩いて上がれる高さであり,構造は鉄筋コンクリート造である。土地に対する密度,建設費の点で経済的な設計が可能であるため,日本の公共住宅ではもっとも多く用いられてきた。(3)高層住宅6階建て以上の共同住宅。日本では11~14階建て程度の例が多い。エレベーターを必要とし,構造上,設備上から建設費が高くなるが,土地に対する密度を高くすることができるので市街地内部の集合住宅に多く見られる。また,欧米では景観上のランドマークとしてもよく用いられる。
共同住宅では,地上から各住戸に達するのに階段,エレベーター,廊下などを用いる。これら通路の形式により,共同住宅は階段室型,片廊下型,中廊下型,集中型,スキップフロア型に分類できる(図)。階段室型は上下に通じた階段室から廊下を通らずに直接各戸に達する型で,各戸のプライバシーが高いこと,各戸が棟の両面に開口をもてること,共用通路部分の面積が比較的少なくてすむなどの長所があり,中層住宅にはきわめて多く用いられる。階段部分が各階同じ繰返しだと昇降の心理的苦痛を伴うので,階段の形状に変化を与えたものもある。片廊下型は階段またはエレベーターで各階へ上がり,片廊下によって各戸へ達する型である。高層住宅では,エレベーター1台当りの住戸数を多くできる点で階段室型より有利になる。通路から住戸内を見透かされるという欠点があるが,これに対する配慮から廊下と住戸内部の間にレベル差をつけたり,廊下を住戸から離した例もある。中廊下型は中廊下によって各戸に達する型であり,土地に対する密度,建設費の点で経済的であるが,住戸の方位や通風の条件が悪くなる。その改良のために廊下を2本にして間に空間をとり,片廊下型を背中合せにしたような型をツイン・コリダー型という。これは日本の高層住宅で考案されたものである。集中型はエレベーターホールをとりまいて多くの住戸が集中する型で,中廊下型と同様な特性をもち,塔状の高層住宅をつくるのに用いられる。アメリカの市街地住宅に多く見られる。スキップフロア型は廊下は2~3階おきとし,その他の階の住戸へはさらに階段を昇降して入る型である。これは片廊下型の欠点を補う意味で考案されたものであり,非廊下階の住戸のプライバシーを保ち,エレベーターの停止階を少なくして運用効率を高めるなどの長所をもつ。さらに住棟の外観にも変化を与えやすいなどの点から高層住宅によく用いられる。
集合住宅の計画に際して,住戸の日照,プライバシーなどの居住性を確保することは基本的事項である。しかし,それだけでは集合住宅にならない。生活圏の広がりに応じて施設を配置し,近隣社会の形成に寄与し,居住者に親しみを感じさせるような空間をつくることも集合住宅計画の重要な課題である。
住戸の居住性を確保するためには,住棟と住棟の間の距離をある程度あける必要がある。日本の集合住宅では一般に冬至に4時間以上の日照を確保することが基準になっており,これが住環境の水準維持に大きな役割を果たしている。しかし,高密度化の要請のもとでは,日照時間の基準が住棟配置計画上の制約として働き,計画の内容をゆがめるという側面もある。高密度化の是非の論議とともに,全体のバランスの中で日照時間の基準を見直す必要もあろう。一方,日本ではとくに住戸の方位が問題にされ,南向きがよいとされている。しかし,住宅地の空間構成上からは住戸の向きを南面から振ることも要請される。日よけなどを施すことによって,東西に45度程度まで振ることは一応認められるべきであろう。さらに東向き,西向きの住戸をつくらざるをえない場合もあろうが,そのときは通風のよい間取りにするとか,暖房,洗濯物の乾燥,あるいは冷房などの設備を整えることが要請される。
集合住宅の計画のうえで,住戸が漫然と並ぶのではなく,適当な数ごとにまとまりを形成し,グルーピングされていることは重要である。グルーピングは近隣の人たちの交流を生みやすくし,居住者が自分の属する集団を認知しやすくし,親しみを感ずる空間をもちやすくする。グルーピングの例として,低層住宅では路地や共用の庭を介して互いに向き合う数戸~20戸程度の構成,遊び場を中心として数十戸を配置する構成などがある。中層住宅では共用の庭を中心としてこれを囲む配置形式がある。その際,まとまりを強く意識させるために入口をすべて中庭側に設け,住戸の開口も極力中庭に向くようにする手法がある。また,高層住宅では通路を適当な大きさで分節するなどの手法がある。グルーピングにはさまざまな形態があり,まとまりの大きさや強固さは固定的にとらえるべきでないが,なんらかの形でグルーピングされていることは重要である。
同一の住戸,住棟で構成された集合住宅は,どうしても画一的で単調になりやすい。集合住宅の景観に変化を与えるためには,異なる要素を複合させる必要がある。集団が小さい場合は同一の要素でも変化のある空間がつくれるが,集団が大きくなるとかえってそれが混乱につながる。例えば,低層住宅によるきめ細かな変化のある配置設計は数十戸程度なら有効だが,それが数百戸程度以上に広がると無秩序な混乱を感じさせるであろう。大規模な団地で配置計画上の変化を求めるためには,高さの異なる住棟の複合について考慮する必要がある。また,大規模な高層住宅では,画一的な住戸の繰返しは単調であじけない住棟の外観をつくりだす。一つの棟の中に異なる住戸を複合させることは,住棟の外観に変化を与えるうえで有効である。一方,同一タイプの住戸に入居する居住者は家族構成や年齢層などの偏りを生じやすい。同一タイプの住戸の集団は不自然な近隣社会を形成し,とくに大規模団地になるとある年齢層に対応する共同施設の一時的な過不足が問題になる。異なる住戸タイプの複合は,健全な近隣社会形成のためにも必要である。
集合住宅においても,1戸1戸の住戸は一般の個人住宅の場合と同じように考えられる点が多い。しかし,集合住宅では設計にあたってだれが入居するかわかっていないのがふつうであり,ある程度万人向けの設計をすることになる。また,大量の住戸をつくる都合上,規格化が行われる。戦後まもなくの公営住宅でつくられた〈台所兼食事室+畳敷の居室〉の平面構成は,規格化を通じて,その後〈DK(ダイニングキッチン)型〉として定着し,日本の住様式に大きな変革をもたらした。しかし,20年以上も踏襲されたこの平面型は固定化し,住生活の発展に適合しなくなり,1970年代からは住戸の規模拡大に伴って,専用の居間を確保した住宅が主流を占めるようになる。しかし,居間の機能はあいまいで多様であり,集合化による開口面の制約も関連して,居間の形や居間と個室の関係などは定型が見いだされていない。また,多様な住要求の発現に対応し,住宅の生産・供給方式とも関連して,規格化そのもののあり方についても新しい考え方が生じている。設計のある段階以降は入居者の要求を直接とり入れるという方法や,入居者の好みに応じて間仕切りを操作し内部を自由にしつらえられるようにするという方法がそれである。
集合住宅では,集合化に関連して,独立住宅とは異なった次のような問題点がある。
(1)間口と奥行き 一般に住戸が横につながる集合住宅では,奥行き方向は隣戸に接し,開口部は間口方向に限定される。ところが,同様の配置でより高い密度を実現できることから,間口を縮め奥行きを深くした住戸が近年多くつくられている。奥行きを大きくすると直接外気に面さない部屋をつくらざるをえなくなって,住戸の平面計画を制約することになり,これをどう補うかが住戸計画上の一つの要点になっている。居室を外側に配し,台所や浴室,便所を内部に配して排気や換気は機械設備に頼るという方法は,一つの解決策として多く用いられている。外気に直接面さない居室は,規模の大きいゆとりのある間取りならつくり方によって問題にはならないが,部屋の独立性を損じるので一般には望ましくない。(2)メゾネットの計画 メゾネットmaisonneteとは1住戸が2層以上にわたるものであり,これに対して1住戸が1層のものをフラットflatという。メゾネットは小規模住戸では各階の面積があまりに小さくなってよい平面が得られないが,住戸内の空間に変化を与える好ましい住戸形式である。高層住宅などでは住棟の断面構成に変化を与え,外観を豊かにする点で効果的であり,スキップフロア型の通路形式と併用してよく用いられる。ただし,各階の平面が一律にならないので,ダクトなどの設備系統が支障なく通るような計画上の配慮が必要になる。
日本では大型コンクリートパネル構法や鉄骨とコンクリートパネルとの複合の構法など,多くの工業生産の手法が発達している。工業化による量産化のためには一定の型を定めて規格化するのが有利である。しかし,大量生産の効果をあげようとすると,敷地環境条件の相違や生活の多様性へのきめ細かな対応がしにくくなる。1970年代前半までの工業化は量産化を優先した画一的なものであったが,その後,多様性に対応しうる工業化のシステムが開発されている。このような考え方に立って,内装材を部品化して軀体(くたい)と分離できるような生産方式を生かし,居住者自身による改造や模様替えを可能にするという方式も開発されている。
供給方式は大きくは賃貸と分譲に分かれる。もともと集合住宅では賃貸住宅が多かったが,現在の日本では政府の政策もあって分譲住宅が多くなっている。現在の分譲集合住宅では修繕や建替えにあたって多くの問題があり,法制度の整備が進められている。しかし,まだ不十分であり,将来,分譲集合住宅の建替えなどが社会問題となることが予測される。これに対し,本来社会的な財とみなすべき土地や建築構造軀体などは公共の所有とし,内装材などは個人の所有とするという方式が提案されている。しかし,これには法律的,技術的な多くの課題が残されている。一方,お仕着せの分譲住宅にはあきたらず,入居者が協同組合をつくって自分たちの主導で集合住宅をつくろうという動きがある。これがコーポラティブ方式である。しかし,集合住宅の計画と建設には多くの技術と労力が必要であり,まだ一般化するにいたらない。
執筆者:杉山 茂一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
集合住宅とは、1棟の建物の中に多くの住宅が存在すること、すなわち建物の内部が壁や床によって、いくつもの部分にくぎられて、そのおのおのが独立した住宅になっているものをさす。
集合住宅と似た用語がいくつかある。「集団住宅」は、一団の土地の上に集団的に計画され、建設される住宅の総称で、一戸建て住宅、集合住宅どちらの場合にも用いられる。「共同住宅」はいわゆるアパートとよばれる、住宅が上下に積層した1棟の建物をさし、出入口を共用する。「長屋」「連続住宅」は平面的に連続した1棟の建物で、各戸が専用の出入口をもつ。
海外での呼称との対応でいえば、集合住宅はイギリスではフラットflatとよび、アメリカではアパートメントとよぶ。いずれの国も、各戸が庭をもつ住宅(一戸建てでも連続住宅でも)をハウスと総称し、非接地型のフラットやアパートメントと明確に区別している。
ハウス系には、一戸建て(デタッチト・ハウス)、二戸建て(セミデタッチト・ハウス)、連続建て(テラスハウス)があり、コモンスペース(共用庭)をもつ連続建てはタウンハウスともよばれる。ハウスは一般に平家か2階建てが多いが、まれには3階建ての場合もある。
積層型集合住宅(共同住宅)のうち、1戸の区画が1平面の中に収まっている(1階形式)場合にはフラットとよばれるのに対し、2階建て形式の住宅が積み重ねられている場合にはメゾネットmaisonetteとよばれている。
なお、建物の階数によって低・中・高層を区別するが、1~3階が低層、4、5階が中層、6階以上でエレベーターを必要とする建物を高層とよぶのが慣例である。
[延藤安弘]
集合住宅は、人間の集まって住むことの歴史とともに歩んできている。紀元前3000年ごろ、人類最初の都市を発達させたメソポタミアやエジプトでは、狭い曲がりくねった廊下に沿って水平方向に相互に密接した泥れんがの住居に住んでいた。しかし、人類史で積み重なって住む経験が初めてみられるのは、エジプトのテーベ(前1580年ごろ~前1085年ごろのエジプトの首都)という人口が密集した都市であった。当時の壁画によると、このころすでに4階建ての集合住宅の存在をうかがわせる。
多くの庶民が積層型の集合住宅に住むことが一般化したのはローマ時代である。公的交通機関がない時代に、増加しつつある人口を比較的小さい場所に詰め込む方策として、インシュラとよばれた上下に住戸を重ねる積層住宅が活用された。
当時の集合住宅の復原図をみると、外観はとても現代的であるが、基礎や構造は欠陥だらけで、棟ごと崩壊したこともあった。建物内部に配管がなく、庶民は水を路上噴水までとりに行き、それを階上まで運ばなければならなかった。
中世の城壁都市、とくにイタリアの都市には積層の集合住宅があった。
しかし、近代的な意味で本格的な集合住宅が建ちだすのは、18世紀に始まる産業革命によって都市に労働者が集まるようになってからである。20世紀になり、ヨーロッパ諸国は、国が勤労者のための良質な低廉な家賃の集合住宅を供給する制度を一般化するようになった。二つの世界大戦を経て、集合住宅をつくる技術は、計画面でも生産面でも進歩した。
[延藤安弘]
長屋も集合住宅の一種であるから、日本の集合住宅は、長屋が文献上初めて現れる『日本書紀』や『万葉集』の時代までさかのぼる。しかし、長屋が都市庶民の住まいとして一般化するのは、京都・大坂で室町時代の末期より発達した貸家に始まる。江戸時代には、江戸・京都・大坂をはじめ、城下町や商業都市が発達するにつれて、有力な町人は自分の屋敷内や裏に長屋を設けて、そこに借家人を住まわせ、蓄財・金もうけの対象にした。
積層の集合住宅が日本で初めてお目見えするのは、1910年(明治43)に建った東京の下谷上野倶楽部(したやうえのくらぶ)という60戸を収容した木造5階建てのアパートであった。鉄筋コンクリートのアパートが出現するのは、1915年(大正4)に三菱(みつびし)が、長崎から18キロメートル離れた端島(はしま)に建てた9階建ての社宅であった。
1923年(大正12)の関東大震災の復興のために、同潤会(どうじゅんかい)が、その事業の一つとして鉄筋コンクリートの集合住宅の建設を始めた。東京都内各所(代官山、青山など)、横浜市内に建てられた同潤会アパートは、優れた計画とデザインによって、第二次世界大戦前におけるもっとも進歩的・文化的な住生活様式を実現した。
戦後の集合住宅は、1948年(昭和23)東京・高輪(たかなわ)に公営住宅として建てられたのが始まりである。集合住宅が華々しく脚光を浴びだしたのは、1955年に日本住宅公団(81年より住宅・都市整備公団、99年より都市基盤整備公団、2004年より都市再生機構)が発足し、集合住宅を集団的に、つまり団地として建てることが一般化してからである。1958年、鉄筋コンクリートの集合住宅居住者が100万人に達したとき、ある週刊誌は「ダンチ族」特集を行い、それ以後「ダンチ」は都市居住者にとって一般的な用語となった。
[延藤安弘]
現代の世界の集合住宅には一つの特徴がある。それは高層住宅から低・中層集合住宅への転換である。欧米にその典型例を求めてみよう。
[延藤安弘]
イギリスは第二次世界大戦後、大量の住宅建設を行うために、ある時期低層から高層へ急激に転換したが、撤退するのも早かった。すなわち、かの国では1950年代にはフラットは32%だったが、1960年代になって徐々に増え、1966年には53%になる。ところが、1968年、イギリスは1960年代の高層住宅の時代に終わりを告げた。この年の5月に起こったロンドン、ローナンポイントのガス爆発事故(相当数の死者と重軽傷者を出した)は、それ以前から鬱積(うっせき)していた高層住宅批判を背景に政府住宅当局をして、高層住宅をその施策メニューから外す決意を促した。
高層住宅は、その建設費や維持管理費が高くつくかわりに、規模そのものに対する人々の深い心理的な反作用(無力感と社会的隔離感)をおこし、破壊行為(バンダリズム)という住環境破壊と犯罪の温床になること、子供を育てる生活環境としては、生理的にも心理的にも望ましくないこと、等々の批判が高まっていた。
1970年代に入ってからは、大ロンドン県の公営住宅建設は、高層住宅を基本的にやめ、低層集合住宅、中層集合住宅が主流を占めるようになった。具体例をロンドンの都心近くの高密市街地内にある公営住宅のマーキス・ロード団地に求めてみよう。これは戸数1185戸の再開発団地である。
集合住宅の形態面で、3~5階建ての準接地型市街住宅として興味深いものがある。3層までは子供をもつ世帯用接地型住宅がクロス・オーバーセクションとして構成されており、3階の天井スラブの上に老人住居が廊下を挟んでのっかっている。この廊下は屋上通路(ルーフストリートまたはペデストリアン・デッキ)とよばれているが、このレベルに実際上ってみると、老人たちが気持ちよさそうに日なたぼっこをしたり談笑しており、さらにみごとな草花が咲きこぼれており、そこにはまるで日本の伝統的長屋等の路地空間を彷彿(ほうふつ)とさせるものがある。
ここには、イギリスの集合住宅の計画原則がみごとに生かされている。一つは、育ち盛りの子供をもつ世帯は、直接外に出られるようにすること、いま一つは、老人同士のコミュニティを形成できるようなグルーピングがなされていることである。
もう一つイギリスの現代の典型的な集合住宅として、コベント・ガーデンという都心の再開発住宅オダムをみてみよう。これはわずか7000平方メートルの敷地に、102戸からなる5階建て集合住宅である。普通、中層集合住宅といえば、羊かんを切ったような板状をしていることが多いが、これはまったく異なったスタイルをとっている。それは、周辺の街区に対しては比較的硬い壁をつくりながら、内側に向かっては開放的な共用庭と変化のある専用庭(パティオ)をもち、12戸の住居群(クラスター)が寄り集まって一つの住宅街区(ブロック)を形成しているという形態をとっている。近代の集合住宅は大量生産と合理化のために画一性・単調さを免れなかったのに対し、これは、この地区のコミュニティ・フィーリングを生かした個性的な表情のある集合住宅である。
4階のレベルに立体街路(フロア・ギャラリー)があり、地上とエレベーターでつながってこのレベルにシェルタード・ハウジングとよばれる老人住宅群30戸がある。シェルタード・ハウジングとは、住み込みの介護人のサービス付きの、老人向きの特別設計の集合住宅のことをいう。
都心にありながら、この集合住宅は、各戸が大きな専用庭をもち、接地型住宅の庭と同じ役割を果たしている。子供が安心して暮らせ、老若混合して住むことができ、周りの街並みに対して積極的な表情をつくりだしているこの集合住宅は、高密快適居住・街並み形成型の集合住宅として注目される。
[延藤安弘]
近代建築の粋といわれた高層集合住宅が衝撃的な事件によって転換せざるをえなかったことはアメリカでもおこった。1972年7月、ミズーリ州セントルイスにあるプルーイット・アイゴー団地が爆破された。この公営団地(11階の高層住宅、2764戸)は、近代集合住宅計画において目標とされた「都市における三つの喜び」(ル・コルビュジエ)である「太陽と空気と緑」をみごとに提供したとされ、1951年AIA(米国建築家協会)から建築賞を受けたモダン建築の華であった。
しかし、この高層住宅団地のもつ基本的特徴――長い廊下、匿名性、セミプライベート・スペースの欠如が原因となって、高層住棟では絶え間ない破壊行為が続いたあとに、管理に手を焼いた市当局の手によって爆破されてしまった。
この現代集合住宅計画史における象徴的なできごとは、その後のアメリカの集合住宅計画においては、住民のコミュニティ感覚の育成、子供への自然監視、安全性、維持管理、住みやすさ、近隣との連続性の共感、空間の使い方のフレキシビリティ等の計画指標が重視されるようになった。これらを具体化しうる集合住宅として、1970年代以降、低層高密度住宅の開発が盛んとなっていった。
たとえば、サンフランシスコの都心部再開発(ゴールデン・ゲート・センター)では1960年代には高層住宅を建てたが、その後の建設コストの値上り、住宅市場が変貌(へんぼう)し高層敬遠志向が高まり、周辺住民も高層建築の周辺地区に与える影響に対してたいへん敏感となった。そこで、これらをクリアするために1970年代後半に建てられた隣接ブロックは、1、2階を事務所とガレージにし、その上に2層の低層集合住宅50戸をのせるスタイルに変わった。
また、郊外では、在来的な一戸建てではなく、共用のプールやテニスコートなどを伴ったタウンハウスが1970年代以降一般化してきている。それらは、環境全体が新鮮なイメージを含んだ、巧みにデザインされた低層集合住宅である。
[延藤安弘]
国土の狭い高密な土地利用を余儀なくされているオランダでは、集合住宅の質が高い伝統がある。20世紀初頭にすでに、居住性において優れた集合住宅を、とくにアムステルダム中心に生み出した。それらは、集合住宅は都市勤労者の各家庭生活を満たすだけでなく、居住者同士が集まって住むことの感覚を高めるための配置計画(レイアウト)や建物デザインに独特のくふうがなされ、人間味のある暖かい表情のあるものであった。
現代においても、オランダは「実験住宅制度」によって、各地に特色のある創意的な集合住宅が建設されている。たとえば、ヘルモンドという小都市に実験的に建てられ始めた「木の家」は、文字どおり木の形をした住宅が連なって「森」のような団地を形成している。住み手にとって住みやすく、経済的にも技術的にも合理的であることが確かめられたのち、こうした特殊な集合住宅が他都市にも普及していっている。
オランダの集合住宅の外部空間構成で特徴的なことは、ボンエルフ(生活の庭)と称して車と人の融合空間を計画的につくりだしていることである。これも高密度な土地を有効に活用するために生まれた知恵である。一般には道路の歩車分離原則が強くいわれてきたのに対し、オランダでは住宅地内部の道路では、車がゆっくりと走り、子供の遊び空間と共存できるような仕掛けがある。この手法は、近年日本でもすこしずつ普及し始めている。
[延藤安弘]
振り返ってみると、戦後から高度経済成長期の期間は、「戸数主義」からくる集合住宅は標準化、画一化の色濃い時代であった。しかし、都市住宅を取り巻く状況・背景の変化によって、現代集合住宅は新しい転換を図りつつある。
その背景の変化とは、第一に、オイル・ショックを境目にした社会経済の安定期への移行にある。量を最高に評価していた時代から、質を評価する時代の転換は、それ以前の高層・巨大プロジェクト中心から、低層・人間的規模のプロジェクトへ、急ぎすぎの開発からユックリズムへと集合住宅づくりの基調を変えた。
第二の変化は、EC(ヨーロッパ共同体)の秘密文書が「日本人はウサギ小屋とさして変わらぬ住宅・環境の下に生息している働き中毒」と指摘し(1979)、この酷評を甘受せざるをえないほどの、日本の都市住宅全般の質の低さにある。こうした状況のなかで、平面的・立体的建てづまりとしてのミニ開発やマンションに対抗しうる環境付き住宅としてのタウンハウスや、定住に足る広い多様な中層住宅への模索が重ねられた。
第三に、集合住宅のさま変わりの背景要因にあげられるのは、集合住宅を積極的に選好し、かつそこをふるさとにしようとする「集合住宅ファン」が相当の厚みをもって形成されていることである。そのことは、都市において過密居住が進行しているなかで、公的賃貸住宅などのそれまでの集合住宅居住体験を踏まえて、住戸内外空間を一体的につくりうる集合住宅のよさを知りつつある層の増加を意味している。
こうして、従来の集合住宅の画一化や、強まりつつある都市住宅の過密化等に対して抱かれた危機感を超えて、いまようやく日本でよい集合住宅を広く育てうる可能性が開けてきたわけである。
[延藤安弘]
1970年ごろ以降およそ15年間の集合住宅の流れを通してみると、三つの節がある。
第1期は1970年代前半までである。この期には民間プロジェクトに有名建築家がかかわり、集合住宅設計上新鮮なキー・ワードが提起された。たとえば、内井昭蔵の桜台コートビレッジ(横浜市青葉区)は、地形的特性に集合住宅をなじませるとともに、「集合住宅の本質はコミュニティ・スペースにおける人間的接触である」ことを具体的に空間化させた。
同じころ菊竹清訓(きよのり)も「共有空間は住宅を集合させる場合の重要な結合部分である」として、住宅・個人生活と、環境・社会生活の間の中間領域に、セミプライベート・スペースとセミパブリック・スペースが存在し、これらによって都市生活の新しい文化が形成されることを明示した。
この時期の注目すべきことは、都市と集合住宅のかかわりを槇文彦(まきふみひこ)が東京・渋谷の代官山集合住宅計画で示したことである。この全体計画は200メートルの街路に沿って住宅が並ぶことから「単体としての建物の細部のプロポーションよりも、アーバンファサードとよぶべき都市に対する表情」が考慮された。
第2期は1970年代後半である。この期の特徴は、広範な都市中間層または低所得者向け集合住宅において、コモンスペースを伴った低層集合住宅が登場したことである。そのことは、一戸建てと中高層集合住宅の間に新種の接地型都市住宅を持ち込み、住戸の「内」と「外」とを領域的に区分する考え方をおこし、住戸周りの表出性とコミュニティ形式を促すところに特徴がある。
公営住宅のなかにあっては、一つの魅力的プロジェクトが現れた。それは茨城県営住宅六番池団地(1976)である。これはスキップ構成の上下3戸が重なる準接地型の集合住宅である。階段にも路地的でヒューマンスケールな形が振り付けられている。六番池から始まる一連のプロジェクトを通して、この型の集合住宅計画に一つの活路をみいだした藤本昌也は、建築と環境の「大地」との連続性の回復を強調し、周辺環境との調和、地方性豊かな住環境、土着化したコミュニティ空間の創造をやってのけた。これらが公営住宅として登場することによって、従来の箱型の公的集合住宅の概念は、みごとに壊された。
公的集合住宅のいま一つの代表である東京多摩ニュータウンの諏訪(すわ)タウンハウス(1979)は、大量空き家発生と「遠・高・狭」の社会的批判を浴びたあとに登場した公団の都市型低層住宅である。タウンハウスは、住戸内外空間を一体的につくり、住みこなされたときに功を奏するものである。その意味でこれは、住戸が多少狭くとも、外部空間=コモンスペースと緑の豊かさが、住み手の定住意識とコミュニティ形成の向上に十分に寄与しうることを明瞭(めいりょう)に示した。人間と緑との相互の親和力が失われつつある都市のなかで、それを集合住宅の側から蘇生(そせい)させる可能性を示しえたプロジェクトである。
高品化住宅とできあいの住宅が普及するほど、また孤立化した住まい方が多くなるほど、人々のつくることへの参加、協同志向は高まってくる。こうした状況のなかで、土地取得から計画・建設・居住・管理に至る全ハウジングプロセスに、住み手の小集団グループがコーディネーターの協力を得つつ、参加・協同するコーポラティブ住宅が生まれ、優れた実施例が生み出されたのも、この時期の特徴として見逃すことができない。
コープ方式の集合住宅づくりは、三つの点で新しい意義を与えつつある。一つは、住み手の願う間取りの多様さのなかで、LDKの組立て方などにおいて、新しい平面計画構成原理を提起していること。第二は、「わたしの家」という個性ある表情の住まいの集合が街並み形成に独特の活気を与えていること。第三に、人間関係のよさをはぐくむことに居住価値をみいだすコミュニティ運動的側面を担っていることである。
第3期は1980年代である。1970年代の低層集合住宅の創造と経験の蓄積という刺激的な時期のあとにきたこの期の特徴は、低層集合住宅の外部空間における歩車融合化、中層住宅の見直しなどである。そのことは、経済面からの要請としての高容積率、生活面からの要請としての高駐車率と高緑被率といった相矛盾する要素を、集合住宅計画のなかでどのように統合するかといった新しい課題への対応を迫られていることを意味している。いいかえれば、高密快適居住の集合住宅づくりへの道を歩み始めているといえよう。
古い時代に建てられた中層住宅は腰掛的な住まいであった。しかし定住型中層住宅として種々のくふうがなされたものに多摩ニュータウン鶴牧(つるまき)プロジェクトがある。定住を促すために、それは、専用住戸面積が90~100平方メートル、多様な間取り、勝手口とサービスバルコニー、屋根裏物置や納戸、木戸や植木鉢置き場のある玄関ポーチ、切妻の勾配(こうばい)屋根、小庇(ひさし)のある家らしい外観、住棟で囲まれた安定した共用庭、小山や池をあしらった外部空間等々の魅力がある。
この時期のいま一つの新しい動向は、既存集合住宅の改善事業である。古い公営住宅は相当に狭い(2K、40平方メートル以下が多い)が、これに1室増築や2戸を1戸にする改造は、従前の狭い公営住宅を定住の場にし、団地をふるさとにしようという住み手側の要求と、供給者側のストックの有効活用施策が呼応して始まったが、今後はより広範な集合住宅ストック改善方策が注目される時代になろう。
[延藤安弘]
以上のように集合住宅は、徐々に日本の都市住宅の一大典型として定着しつつあり、とりわけ人々が定住し、熟成した住環境となり、都市の生きた部分を構成する集合住宅の可能性はしだいに膨らみつつある。
よりよい集合住宅づくりを目ざすことに、政策や技術の側の役割も大きいが、集合住宅の質は建築の形態そのものと同じぐらいに、住み手の住み方と管理への主体的取り組みがたいせつである。その意味では、集まって住むことへの志を高めるための住教育や住環境学習が今後の課題となってこよう。
[延藤安弘]
『延藤安弘他著『タウンハウスの実践と展開』(1983・鹿島出版会)』▽『嵐山ロイアルハイツマナー集編集委員会編著『とびらの外も私たちの住まい』(1983・学芸出版社)』▽『鈴木成文他著『「いえ」と「まち」』(1984・鹿島出版会)』▽『渡辺圭子著『ライフサイクルと集合住宅に関する人間科学的研究――特に幼児と高齢者のいる家族の場合』(1992・住宅総合研究財団、丸善発売)』▽『延藤安弘・熊本大学延藤研究室著『これからの集合住宅づくり』(1995・晶文社)』▽『『昭和の集合住宅史』(1995・日本住宅協会、星雲社発売)』▽『『日本における集合住宅の普及過程――産業革命期から高度経済成長期まで』(1997・日本住宅総合センター)』▽『高田光雄著『日本における集合住宅計画の変遷』(1998・日本放送出版協会)』▽『黒沢隆著『集合住宅原論の試み』(1998・鹿島出版会)』▽『巽和夫・町家型集合住宅研究会編『町家型集合住宅――成熟社会の都心居住へ』(1999・学芸出版社)』▽『『日本における集合住宅の定着過程――安定成長期から20世紀末まで』(2001・日本住宅総合センター)』▽『日本建築学会編『集合住宅のリノベーション』(2004・技報堂出版)』▽『植田実著『集合住宅物語』(2004・みすず書房)』▽『集合住宅研究会著『集合住宅』上下(新日本出版社・新日本新書)』
…甘粛省東部の窰洞は,河南西部から山西,陝西北部一帯に分布するものと異なり,尖頭や放物線アーチ型をなし,洞内も高大な空間になる。
[客家の土楼]
福建省竜岩地区に,客家(ハツカ)人の多数の家族が共同生活を営む巨大な集合住宅がある。環形と方形の2種があり,いずれも窓の少ない土壁の特異な外観を呈する。…
…旧ケーニヒスベルクに生まれ,故郷の建築学校をおえ,シュトゥットガルトのT.フィッシャーの建築事務所で見習い後,1910年からベルリンで独立。第1次大戦前には,田園都市運動に連なる都市郊外の集合住宅や博覧会建築の《鉄の記念堂》《ガラスの家》などで注目された。とくに総ガラスの円蓋に色彩照明の人工滝を収めたガラス館は,石や煉瓦の暗い建築を否定するガラスの多彩で美的な造形により評判になった。…
…関東大震災復興のために設立された財団法人同潤会(1924‐41)の事業の一環として,青山,代官山,三田,江戸川など,東京,横浜に15ヵ所,総計2508戸建設されたアパート。欧米の影響を受けた余裕のある建物配置と共同施設の設置や水洗便所など新しい住形式の試行により,その後の集合住宅に大きな影響を与えた。各戸は33m2強と小さいが,内部は和風住宅のよさを生かす努力が払われた。…
…棟の細長い平面の建物を区切って,複数の世帯で住み分ける住居形態。一つの敷地に建てられた建物に一世帯が住んでいる〈独立住宅〉に対して,複数の世帯が一つの建物に住む住居形態を〈集合住宅〉と呼ぶが,長屋は江戸時代以前におけるその一般的な形態である。 日本では長屋は古くからさまざまな形で存在し,奈良時代の寺院の僧の住居であった僧坊も長屋形式である。…
※「集合住宅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
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