出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
生没年不詳。鎌倉中期の武将。北条氏の一族。越後守。朝時の長男。1246年(寛元4)御家人の間で前将軍藤原頼経を擁立し北条時頼を倒す陰謀が計画され,その首謀者となる。しかし事前に時頼の知るところとなり,捕らえられ伊豆国江馬に流刑となった(宮(みや)騒動)。のち許されて鎌倉に戻った。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…三寅は当時2歳であり,頼朝の後家の北条政子が政務を行ったが,25年(嘉禄1)政子の死後,三寅は元服して頼経と称し,翌年,正式に征夷大将軍に任命された。44年(寛元2)子の頼嗣に将軍職を譲って後も頼経は隠然たる勢力を持ち,46年北条時頼が執権となると,北条一門の名越光時が頼経に接近し,執権の地位を奪おうとする事件がおこり,頼経は京都に追放された(宮騒動)。この事件に座して,頼経の父道家も関東申次を罷免されて失脚した。…
…頼経が長く鎌倉にとどまり,御家人(ごけにん)とも親密となり,執権勢力に対抗するようになると,これを恐れた執権北条経時は,44年(寛元2)頼経に迫って将軍職を子の頼嗣に譲らせた。頼経は翌年出家したが,なお声望を保ち,46年北条一族の名越光時が執権の地位を奪おうとした事件(宮騒動(みやそうどう))に関係して京都に追われた。この事件によって頼経の父道家も失脚し,三浦光村が頼経の寵臣であったことから,翌47年(宝治1)三浦氏も滅ぼされた(宝治合戦)。…
…鎌倉将軍藤原頼経は在職が長期にわたるにつれ御家人との結びつきが深まってその権勢が強まり,執権の権勢が不安定になることを北条氏に警戒されて更迭されたが,その後も鎌倉にとどまって〈大殿〉と称され,前将軍として勢力を保持していた。1246年(寛元4)北条氏の支流名越光時は,千葉秀胤らを誘い,頼経を擁して北条時頼を除き執権の地位を奪おうと図ったが,事前に発覚して追放され,頼経は京都に送還された。三浦光村も頼経に接近してこの事件に関係したらしく,頼経を京都まで護送したのち,再び頼経を鎌倉に迎える考えをもっていたといわれる。…
※「名越光時」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
一度利用した製品を捨てずにそのまま再使用すること。ごみの削減に重要だとされる「3R」の一つで、衣類・服飾品や家電などさまざまな品目が取り扱われている。リユース商品の専門店やイベント、フリーマーケット...