和学講談所(読み)ワガクコウダンショ

デジタル大辞泉 「和学講談所」の意味・読み・例文・類語

わがく‐こうだんしょ〔‐カウダンシヨ〕【和学講談所】

寛政5年(1793)塙保己一はなわほきいち幕府公許を得て江戸設立した学舎国史律令を講じ、「群書類従」「武家名目抄」などを編纂へんさん。慶応4年(1868)廃止和学所

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「和学講談所」の意味・読み・例文・類語

わがく‐こうだんしょ‥カウダンショ【和学講談所】

  1. 江戸時代、和学の研究および講習を行なった所。寛政五年(一七九三塙保己一が幕府の公許を得て江戸麹町裏六番町に設立。門人中山信名・屋代弘賢らの協力を得て、国史律令の講習、「群書類従」「武家名目抄」などの編纂を行なった。その子忠宝がついで校主となり、幕府の給費を受けて事業を経営したが、慶応四年(一八六八)廃止。和学所。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「和学講談所」の意味・わかりやすい解説

和学講談所 (わがくこうだんしょ)

江戸時代,塙保己一の建てた,和学ことに国史律令の講究編纂を目的とした学舎。和学所ともいう。1793年(寛政5),江戸麴町の裏六番丁の宅地を借りて幕府の許可を得て創立,95年4ヵ所の町屋敷からの年々の上納金50両を下付され雑費に充当することになり,また和学御用筋は林大学頭支配が定まった。前から続行中の《続群書類従》の編集が続けられたが,1805年(文化2)表六番丁に移転し,毎年金60両の経費で〈史料〉と《武家名目抄》の編集も業務とした。中山信名屋代弘賢,関口行之,児山紀成ら常時7,8名の編纂員が従事した。22年(文政5)保己一死後,子の忠宝(ただとみ)(次郎)が継承し,61年(文久1)出役頭取を置き伊丹光之丞を任じた。62年忠宝が暗殺され,子の忠韶(ただつぐ)は勘定格二十人扶持で和学所付となった。同年稽古所を設け国史律令の講習,輪読,会読が行われ,武家故実の講習,和歌文章の会も催された。68年(明治1)6月に廃止されたが,〈史料〉は1861年時に宇多~後一条天皇の138年間分430冊が完成しており,稿本類は明治政府の修史局に引き継がれた。付属の文庫を温故堂といった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「和学講談所」の意味・わかりやすい解説

和学講談所
わがくこうだんしょ

1793年(寛政5)塙保己一(はなわほきいち)が幕府に申請して創設した学舎。和学ことに国史、律令(りつりょう)を講じ、多くの国書を校訂、編纂(へんさん)した。林大学頭(はやしだいがくのかみ)の支配下に属し、江戸麹町(こうじまち)六番町に用地を給せられて建設、別に町屋敷を下付されてその上納金を諸経費にあてた。そこで保己一は門人の中山信名(のぶな)、屋代弘賢(やしろひろかた)らとともに、以前から着手していた正続1680巻に及ぶ古文献の集大成『群書類従』の収集校訂を続行、また宇多(うだ)天皇即位より徳川家康就任に至る『史料』、武家の制度に関する『武家名目(みょうもく)抄』などの編集に努めた。1821年(文政4)保己一死後は子忠宝(ただとみ)が継ぎ、62年(文久2)忠宝死後はその子忠韻(ただつぐ)が継いでともに講習、編纂事業を続行し、職制なども徐々に整ったが、幕末争乱期に至って事業は衰退、維新となって68年(明治1)6月に廃止され、その史料、稿本類は明治政府の修史局に引き継がれた。しかし、漢学の学問所のみが各地に存在し、また国学としては本居宣長(もとおりのりなが)が全盛であった時代に、このような学問所が開かれた意義は大きく、とくにその修史事業は後世に多大の貢献をなしている。

[和田三三生]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「和学講談所」の意味・わかりやすい解説

和学講談所【わがくこうだんしょ】

江戸時代,塙保己一(はなわほきいち)が創立した学舎。和学所とも。1793年江戸麹町(こうじまち)に地所を借り幕府の許可を得て開設。2年後から50両を下付される。のち表(おもて)六番町に移った。屋代弘賢(ひろかた)らを中心に《群書類従》《續群書類従》《武家名目抄》などを編纂(へんさん)。保己一死後,子の忠宝(ただとみ),その子忠韶(ただつぐ)と継承。完成していた430冊の〈史料〉は明治政府の修史局に引き継がれた。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「和学講談所」の解説

和学講談所
わがくこうだんしょ

江戸後期,塙保己一(はなわほきいち)の建てた和学講究を目的とする学舎。1793年(寛政5)江戸麹町裏六番丁に幕府の許可を得て創立し,林大学頭支配となる。1805年(文化2)表六番丁に移転。従前からの「群書類従」の編集刊行,「史料」「武家名目抄」の編纂を業務とし,常時7~8人の編纂員が参加した。22年(文政5)保己一が没し子忠宝(ただとみ)が継ぎ,61年(文久元)には伊丹光之丞が出役頭取,62年忠宝の子忠韶(ただつぐ)が和学所付となった。同年稽古所を併設,国史律令および武家故実の講習,和歌文章の会が催された。68年(明治元)廃止。「史料」の稿本は新政府の修史局に移管された。付属の文庫を温故堂という。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「和学講談所」の意味・わかりやすい解説

和学講談所
わがくこうだんしょ

塙保己一の創立した学問所。寛政5 (1793) 年江戸幕府の許可と下付金を受けて江戸麹町に設立,のち表六番町に移した。林大学頭の支配を受け,国史,律令の講習および史料の編纂をおもな事業とし,屋代弘賢らを中心に『群書類従』『続群書類従』『武家名目抄』などを編纂した。幕末に保己一の子忠宝が尊攘派によって暗殺され,編纂は停止された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「和学講談所」の解説

和学講談所
わがくこうだんしょ

1793年,塙保己一 (はなわほきいち) が設立した和学専門の学舎(〜1868)
江戸幕府に懇望して江戸麴町に開設。古代の歴史・律令を講究する研究所と門人を教育する機関としての性格をもっていた。林大学頭の支配下にあり,『群書類従』正続などの編集を行った。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の和学講談所の言及

【図書館】より

… 以上のような漢籍中心の文庫が栄える一方,江戸時代も後期になると国書への関心が高まり,塙保己一の申出による中国の《漢魏叢書》をモデルにした国書の類集編纂に対して幕府は助成を行う。和学講談所の活動がここに始まる。塙自身書物の採訪を行い,書写して集めたものを温故堂文庫として整理保存した。…

※「和学講談所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」