研究所(読み)けんきゅうじょ(英語表記)research institute

精選版 日本国語大辞典 「研究所」の意味・読み・例文・類語

けんきゅう‐じょ ケンキウ‥【研究所】

〘名〙 研究をするための特別な設備を備えている施設。
一年有半(1901)〈中江兆民〉一「当地伝染病研究所長石神某と共に立合人と成り」

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改訂新版 世界大百科事典 「研究所」の意味・わかりやすい解説

研究所 (けんきゅうじょ)
research institute

研究所とは,知識の探究とその実際的利用の可能性を探ることを目的とする組織であるが,現在,多種多様な研究所が存在し活動している。すなわち,分野別(人文・社会科学,科学技術),設置主体別(国・公・私),設置形態別(独立・付属),内容別(基礎・応用)など,実にさまざまな研究所がある。本項では,科学技術関係の研究所に焦点を合わせ,その形成と展開を歴史的に概観する。

17世紀の哲学者F.ベーコンは,未完に終わったユートピア物語《ニュー・アトランティス》(1627)のなかで,巨大な国立研究所ともいうべきサロモン学院に言及している。この学院の目的は〈事物の諸原因とひそかな運動に関する知識であり,人間帝国の領域を拡大して,可能なあらゆることを成就〉することである,とされている。また,サロモン学院には,光学・音響・香気・数学・感覚欺瞞(ぎまん)の各研究所のほか,機械工場をはじめ,さまざまな施設・設備が構想されている。功利主義的見地に立って,人間知識による自然の支配という理念を高く掲げたベーコンにとって,サロモン学院はきたるべきユートピアの強力な頭脳として不可欠の存在だったのである。現在,日本で建設が進められている筑波研究学園都市やロシアのノボシビルスクの科学都市などは,ベーコンが夢想したサロモン学院が現実化したものとみることができるかもしれない。

ベーコンの提案にもかかわらず,また17世紀の科学革命以降の科学および産業の発展にもかかわらず,十分な設備とスタッフをもつ研究所は19世紀後半になるまで実現しなかった。すなわち,17~18世紀にあっては,科学研究のための制度的基盤としては,大学のほか各種の学会アカデミーがあったが,いずれも小規模なもので財政的な裏づけにも乏しかったのである。しかし,19世紀になると,このような状況はしだいに変化していく。産業革命の進展と,それと軌を一にしたナショナリズムの高揚の一つの結果として,人々は科学技術の重要性に気づき,国家的な基盤を有する科学技術研究所の必要性が論議されるようになってきたからである。たとえば,電機会社の創立者で,みずからも優秀な技術者であったドイツ人W.vonジーメンスは,工業学校や工科大学電気工学の教授職を設置するよう働きかける一方,科学研究の意義について,ある覚書のなかで次のように述べている。〈科学研究は技術進歩の確かな基盤を与えてくれる。一国の産業は,その国が科学研究の第一線になければ,国際的に指導的な立場を得ることも維持することもできないだろう。科学研究こそ産業育成の最も効果的な方法である〉。さらに,ジーメンスは別の覚書で,ドイツの科学教育の優秀さは認めつつも〈科学それ自体を発展させるための組織がない。それは時間に余裕のある教師や,科学教育を受けた私人に任されている。……こんにち,重要な意味をもった実験を行うには,設備が整い,科学研究にふさわしい施設が必要である。人々はそこで高度で高価な器具を用いて,科学者たちにとって懸案となっている問題の解決に気を散らさずに取り組むことができる〉。ジーメンスは,このような見地から,国立研究所の創設に奔走した。ジーメンスの提案は,産業競争で,イギリス,フランスの先進2国を追い上げ,トップの座に立とうとしていたドイツの産業界・学界の支持をとりつけて,1887年,帝国物理学・工学研究所Physikalish-Technische Reichsanstalt(略称PTR)が設立された。初代所長には,エネルギー保存則の発見者の一人として著名なH.vonヘルムホルツが就任した。

 ドイツにおけるPTRの設立と,そこでの華々しい成果は,ライバル諸国にも影響を与えた。たとえばイギリスでは,1890年代から物理学者のロッジO.J.Lodge(1851-1940)を中心に国立研究所設立の動きが始まり,イギリス科学振興協会(BAAS)が,これをバックアップした。当初,イギリス政府は,財政的困難を理由に,国立研究所設立に難色を示したが,科学者たちは粘り強い運動を続けて,ついに1900年,ローヤル・ソサエティの管轄下に国立物理学研究所National Physical Laboratory(NPL)が誕生した。この研究所はドイツのPTRをモデルにしていたが,基礎研究と同時に,測定器の標準化や検定,さらに材料試験や物理定数の決定などといった実際的な役割も期待された。第1次大戦中の1916年,イギリス政府は科学政策を見直し,科学産業研究庁Department of Scientific and Industrial Research(DSIR)を設立したが,NPLは18年にDSIRの傘下に移され,制度的にも財政的にも堅固な基盤を得ることができた。

 1901年,アメリカに国立標準局National Bureau of Standards(NBS)が設立されたが,これは,新興国アメリカもヨーロッパの先進工業国にならって,政府レベルで研究体制の整備に乗り出した事情を物語っている。また,日本についていえば,17年に設立された理化学研究所は国立ではなく,半官半民の組織であったが,これまでみてきたような一連の動きのなかに位置づけることができよう。

国家間の産業競争は企業間の競争を集約して反映したものであった。19世紀末は,化学工業の発展期であったが,各企業は,新しい化学染料の開発にしのぎを削っていた。そのため,従来のように熟練技術者の経験や勘に頼るというやり方は時代にそぐわないものとなり,組織的・体系的な研究開発が必要となってきた。各国で特許制度が整備されたことも,企業が自前の研究所をもつ必要性を高めた。このような状況に最も早くかつ的確に対応したのはドイツの化学会社バイエル社であった。同社の有能な化学技師デュースベルクC.Duisberg(1861-1935)の尽力で,1891年,バイエル社は他社に先駆けて研究所の設立に踏み切った。かくて,バイエル社は,ドイツ各地の大学や工科大学で十分な学問的訓練を受けて学位さえ有するような優秀な人材を雇い入れ,研究にあたらせたのである。その結果,バイエル社は研究所における活発な研究開発とノウ・ハウの蓄積を通じて,ドイツのみならず世界に君臨する大企業としての地位をゆるぎないものとすることができたのである。

 1892年,アメリカの二つの電気会社が合体して誕生したゼネラル・エレクトリック社(GE)は,企業活動の活性化をもくろんで,1900年に研究所を設立した。所長になったホイットニーW.R.Whitney(1868-1958)は,当時マサチューセッツ工科大学(MIT)の化学教授であったが,所長就任後も大学教授としての活動を続けた。というのも,ホイットニーは企業研究所といえども基礎研究をおろそかにすべきでなく,アカデミックな雰囲気が望ましいと考えていたからである。このようなホイットニーの方針は成功した。たとえば,1909年に研究員となったI.ラングミュアは研究所の自由な空気のなかで,のびのび研究活動に励んで,基礎的分野も含む多方面ですぐれた業績を挙げたが,彼の業績は実際面でもGEに大きな利益をもたらしたのである。

 GEの研究所と同様,多くの優秀な研究員を擁し,基礎科学も含む幅広い研究活動のなかから画期的な発見・発明,技術革新を生み出している企業研究所としては,化学会社デュポンの研究所や,ベル電話研究所(BTL)が有名である。前者は1902年に設立されたが,20年代から30年代にかけて,W.H.カロザーズを中心に化学繊維の開発に取り組み,ナイロンをつくり出すことに成功した。またBTLにおける固体物理学の基礎的な研究のなかで,半導体の特異な性質が明らかにされたことによってトランジスターが誕生したのであった。

日本の場合も,戦争,とくに2度の世界大戦を契機にして,研究所,研究体制が整備され,変革された。第1次大戦の勃発の結果,化学製品の不足という事態に直面した。この苦い経験のなかから,ソーダ工業の発展を目ざして,1918年,臨時窒素研究所が設立された。この研究所は後に東京工業試験所に合併された。また,この戦争では航空機が登場し,兵器として将来,いっそう重要な役割を果たすことが暗示されたが,いち早く,1916年には東京大学付置の航空研究所が設けられた。さらに,直接的な軍事研究のためには,19年には陸軍科学研究所が,23年には海軍科学研究所が設立された。そのほか,第1次大戦以降,軍事および産業上重要と思われる分野にはつぎつぎと国立の研究所ないしは試験所が設けられ,日本の産業化と軍事大国化への基盤づくりが急がれたのであった。このような動きの頂点に,前述の理化学研究所の設立があったのである。太平洋戦争とそこに至る戦時動員体制のなかで,研究所は大きな成果を期待され,とくに軍事にかかわる研究所は優遇されたがみるべき成果を挙げることなく日本は敗戦を迎えた。

 敗戦後は,軍事研究が禁じられ,もっぱら基礎的・産業的研究が奨励されたが,戦後間もない復興期には,国立の研究所における基礎的な研究も,民間企業における産業技術も主としてアメリカから導入された知識や技術に頼らざるをえなかった。しかし,60年代以降の高度経済成長期には,国立の研究所もしだいに整備されたし,とくに顕著な動きとして,主要民間大企業が自前の研究所を設立し,導入技術の消化から独自技術の開発へと向かう体制を整えたことが注目される。日本の場合,平和憲法下にあるので,外国のように軍事研究に多大の費用と人材を費やす必要がなく,戦後一貫してもっぱら産業技術の研究開発に資源を振り向けることができたが,これが幸いして,70年代末から80年代にかけて日本は欧米と肩を並べる産業国家としてよみがえったのであった。

原子爆弾の製造,レーダーの利用など,先端的な科学技術は第2次大戦の帰趨(きすう)に大きな影響を与えた。そのため,戦後になると各国政府は,科学政策を再編し,科学技術の振興に,これまで以上に力を注ぐようになった。東西両陣営の対立によって生じた冷戦の激化や,1957年のソ連による人工衛星の打上げによる〈スプートニク・ショック〉はいっそうこの傾向を強めた。このような事情が重なって,科学研究のなかで,巨大科学(ビッグ・サイエンス)が大きな比重を占めるようになってきた。とくに軍事的および政治的意義の大きい原子力や宇宙開発については,各国政府はそれぞれ大規模な国立研究所を設置し,資金や人材をそこに集中している。科学の巨大化の傾向は,巨大な加速器を必要とする高エネルギー物理学などにもみることができる。大加速器の建設と維持には莫大な費用がかかるため,ヨーロッパ諸国は共同出資して,ジュネーブ近郊にCERN(セルン)(欧州合同原子核研究所)を設立した。ビッグ・サイエンスは,米ソを除いては,一国の手に余るものとなってしまったのである。科学研究のとめどない巨大化とそれに伴う研究所の肥大化は,研究所の官僚化を余儀なくし,政治権力による科学支配を招きやすい。同時に,個々の科学者は,厳しい業績競争のなかで,みずからの研究の科学的および社会的意義を見失い,疎外された状況に陥る危険性もある。70年代の経済的危機と科学技術に対する批判的な空気のなかで,巨大化の進行に歯止めがかかったことは,科学界にとってむしろ幸いといえよう。
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大学事典 「研究所」の解説

研究所
けんきゅうじょ

[研究所の歴史と多様性]

研究所は,公設の研究所や民間の営利,非営利の研究所を指して言うことが多い。このほかに,民間企業や大学に付属する研究所もある。研究所はその設置主体にかかわらず,一般的に特定の研究分野の研究,または特定の目的のための研究を実施するために設置される。

 ポルトガルのエンリケ航海王子(ポルトガル)は,15世紀初頭に造船,天体観測,航海術などを研究させるための施設を1ヵ所に集めて建設するとともに,航海や探検を援助し,大航海時代の礎となったと言われている。エンリケ航海王子が開いた研究施設は,歴史上初の研究所であると言われている。17世紀以降は欧州各地に科学分野のアカデミーが設立されるようになる。アカデミーは科学愛好家の集まりであったが,大学における科学の教育研究が本格化するまでは,科学研究の交流の場であるとともに人材育成や研究のための施設としての性格も有していた。18世紀末にはロンドン王立協会の会員が中心になって科学の研究,教育のための専門施設である王立研究所(イギリス)(Royal Institute(イギリス))が設立された。このように,研究を実施することを目的に設置された施設としての研究所は,大学とは別のものとして発展してきた。

 日本では,明治期に政府直営の衛生試験所,気象台,天文台,電気試験所,農事試験所,工業試験所等が設置された。これらは国立研究機関の源流ではあるが,研究所としては未熟な段階にとどまった。日本で最初の本格的な研究所は,1917年(大正6)設立の理化学研究所(日本)(理研(日本))であると言われる。理研では自然科学分野の基礎研究,応用研究が行われ,研究成果の産業化も行った。関連企業も多く,理研コンツェルン(日本)を形成した。このため,第2次世界大戦後には財閥解体の対象となり,理研本体も解体されたが,1958年(昭和33)に特殊法人として新たに設置され,その後独立行政法人,さらに国立研究開発法人に移行し今日に至っている。

 日本では,公設の研究所を公設試験研究機関(日本)と言う。そのうち都道府県等が設置する研究所は,地域産業の振興や行政支援のため,工業,農業,環境衛生等の分野の研究所が設置されている。国立の研究所は医学系を中心に,産業,農林水産業,建設,通信,その他の行政分野にほぼ対応する形で,国の直営研究機関もしくは国立研究開発法人として設置されている。なお文部科学省には,基礎研究分野の研究所や航空宇宙,海洋,原子力等の国家プロジェクトの推進のための研究所が設置されているほか,大学共同利用機関と呼ばれる形態の基礎研究分野の研究所がある。大学共同利用機関(日本)は固有の研究活動のほか,大規模施設や研究基盤を有し,大学関係者等の利用に供する役割を担っている。日本では,大学共同利用機関の多くが国立大学の附置研究所等が独立して設置され,かつては国立大学と同じ財源(国立学校特別会計)で運営されていたことから,伝統的に産学官の区別では大学部門に分類されている。ただし,海外の同等の機関は公設研究部門に分類される。

[国立大学の研究所]

国立大学は,かつて附置研究所と分類される研究所を持っていた。これは学部等と同等の部局として,予算上も一定の裏付けをもって設置されていた。学科相当の研究所は研究施設と呼ばれ,特定の学部に附属する学部附属研究施設,大学直轄の学内共同利用研究施設,全国共同利用研究施設などの種類があった。研究センター(日本)と呼ばれる組織の多くは,制度上は研究施設に分類されていた。しかし,2004年(平成16)の国立大学の法人化により,国立大学の附置研究所,研究施設の設置・改廃等は法人の自由裁量に任されることになり,従来の附置研究所,研究施設の運営基盤は脆弱になった。一方,大学の独自の判断で研究センター,研究ユニットなどと呼ぶ研究組織を設置することが可能になり,各大学が重点的に資源を投入し,研究拠点の形成を目指すことが可能になった。また多くの大学では,一定規模の教員が集積している場合や,大型の外部資金を受け入れた場合に研究センター等を名乗ることを認めるようになった。これらは,組織の永続性を保証するわけではないが,研究活動の可視性を高め,研究活動の進展に応じて柔軟に組織化する手段となった。

 なお,国立大学法人化以降,運営基盤が脆弱化していた国立大学の全国共同利用研究所・研究施設の制度は2009年で廃止され,新たに「共同利用・共同研究拠点(日本)」の制度が発足した。共同利用・共同研究拠点は,従来の国立大学の全国共同利用研究所・研究施設の枠を超えて,さらには公私立大学を含めた大学の枠を超えて大型の研究設備や大量の資料・データ等を全国の研究者が共同利用し,共同研究する制度として発足したものである。また,大学を超えて連携するネットワーク型共同利用・共同研究拠点も可能になった。共同利用・共同研究拠点となるためには文部科学大臣の認定を受ける必要があるが,認定は期限付きである。このような制度変化の結果,国立大学の研究所,研究センターは私立大学のそれらと似たものになった。アメリカ合衆国では,学部等とは別に組織される研究組織を組織的研究単位(アメリカ)(Organized Research Unit(アメリカ))と呼ぶが,日本の大学における研究組織も似たものになってきたと言える。
著者: 小林信一

参考文献: 日本科学史学会編『日本科学技術史大系 第3巻(通史第3)』第一法規出版,1967.

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