咸宜園跡(読み)かんぎえんあと

日本歴史地名大系 「咸宜園跡」の解説

咸宜園跡
かんぎえんあと

[現在地名]日田市淡窓二丁目

広瀬淡窓(一七八二―一八五六)の開いた私塾跡。国指定史跡。もとの堀田ほりた村の内。淡窓は日田豆田まめだ町のうお町に生れ、六歳の頃から父桃秋や地元の僧侶らについて四書を読み、一三歳の時には郡代に孝経を講じたという。寛政九年(一七九七)筑前徂徠学派の亀井南冥・昭陽の亀井塾に入り、漢詩や経書を本格的に学ぶ。文化二年(一八〇五)家業を弟に譲り、豆田長福ちようふく寺の学寮を借りて私塾を開き、同四年豆田の裏町に塾舎を建て桂林けいりん(桂林荘)と称した。同一四年堀田村に移し、咸宜園とした。身分・年齢・職業などによる差別なく学問の機会を与えようとする意があるという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「咸宜園跡」の解説

かんぎえんあと【咸宜園跡】


大分県日田市南豆田にある塾跡。市のほぼ中心部に所在する、儒学者で漢詩人、教育者でもある広瀬淡窓(ひろせたんそう)が開いた私塾跡。江戸時代後期から明治時代の教育史上重要な遺跡として、1932年(昭和7)に国の史跡に指定された。淡窓は日田の豪商・博多屋の第5代の長男として生まれたが、生来の病弱で第6代を弟の久兵衛に譲り、1805年(文化2)には長福寺に最初の塾・成章舎を開く。2年後に中城川畔に移転し、1817年(文化14)、現在地に移り咸宜園と改称。咸宜園は淡窓のほかに、弟の旭荘(きょくそう)や青邨(せいそん)、林外(りんがい)など、10代の塾主によって1897年(明治30)まで存続した。塾生は全国各地から集まり、最盛期には200人が在籍、延べ4000人を超える日本最大級の私塾となった。出身者には、高野長英や大村益次郎清浦奎吾、上野彦馬などがいる。建物は、道を挟んで西側には、考槃楼(こうはんろう)、西塾などを置き、東側には秋風庵(しゅうふうあん)、心遠処、遠思楼(えんしろう)、東塾、講堂などを設けた。遺構としては、西塾跡の車井戸、秋風庵、遠思楼が残る。JR久大本線日田駅から徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

事典 日本の地域遺産 「咸宜園跡」の解説

咸宜園跡

(大分県日田市淡窓2-2-13)
おおいた遺産」指定の地域遺産
咸宜園は、江戸時代の儒学者広瀬淡窓(1782-1856)が開設した私塾。居宅「秋風庵」や書斎「遠思楼」が現存している。国指定史跡

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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