喧嘩両成敗法 (けんかりょうせいばいほう)
喧嘩両成敗法の本来のかたちは,喧嘩をした者は双方とも,〈理非〉つまり喧嘩の原因を問うことなく,同等の処罰をうける(相手の被害と同じ害を罰としてうける)というもので,この場合の喧嘩とは物理的闘争のみを指す。したがって喧嘩を仕掛けられても応戦しない者は処罰されない。たとえばAがBを怒らす原因(侮辱,横領,債務不履行等々)を作り,Bが実力行使に及んだ場合(B:理,A:非)でも,Aが応戦しないかぎり,Bのみが処罰される。逆にそうした原因がないのにBが喧嘩を仕掛けた場合(A:理,B:非),Aが応戦すればAも罰せられる(Bがその際殺されれば,Aは死罪)。
このような内容の両成敗法は戦国大名の法令に広くみられる(伊達,武田,長宗我部など)が,史料上初出の実定法規としては五島列島の青方文書に含まれる1414年(応永21)の一揆契約状の第3条〈喧嘩闘諍いできたらん時は,親子に限るまじく候。両方二人お(を)失い申すべく候〉にまでさかのぼる。この条文は〈喧嘩が発生したら,双方とも親子にかぎら(ず加勢したり,復讐したりして収拾がつか)ないだろうから,両当事者2人とも殺す〉という意味に解される。ここにみられるのは自己の主張を実現するために暴力を使うことを(正当防衛のためであっても)いっさいみとめないことによって秩序を維持しようという思想である。これは裏を返せば,紛争の解決は公の場の裁定によるべし,ということになる。現に前掲青方一揆の上部組織である〈宇久・有河・青方・多尾一族等〉の一揆では,すでに紛争を一揆構成員全体の合議にゆだね,その裁定に不服の者が実力行使に及んだ場合には,その〈縁者〉といえども鎮圧に協力すべきことを定めている。このように裁決権を独占する公の場を,自己の権力機構に吸収し,強化したのが戦国大名であって,両成敗法がこの時期に広まったのもこのためである。〈人をきる咎の事,(役人へ)披露のうへ,成敗を待つべきのところ,其儀におよばず,わたくしに切りかへしすべからず。かくのごとくのともがら,たとひ至極の理運たりとも,法度をそむき候うへ(は),成敗を加ふべきなり〉(《塵芥集》)は,公の裁判権の確立と喧嘩両成敗法との関係を如実に示している。天下を統一した豊臣秀吉が両成敗法を採用するに及んで,それは〈天下の大法〉と呼ばれるようになり,〈我者殺サレバ,先ノ者切腹スベシ。別人ヲ切ラバ,此方ノ者切腹スベシ〉(前橋旧蔵聞書)といわれるように,喧嘩した者は公の成敗を待たずにみずから両成敗を実行するほどまでに定着した。
江戸時代には軍令として用いられたほかは,両成敗法が一般法として布令されることはなかったが,慣習法として〈天下の大法〉の位置を保った。近代に入っても,喧嘩の当事者が正当防衛を主張しても〈我国ニ於テ古来喧嘩両成敗ノ格言ヲ存シ,喧嘩ノ闘争者双方ノ行為ハ互ニ違法〉(1932年1月25日大審院判決)だからみとめない,というかたちで生き続けた。第2次大戦後も〈法律秩序に反する〉喧嘩については正当防衛をみとめないというかたちで,両成敗法的な考え方は裁判所のなかに残っている。もっとも,この場合正当防衛をみとめられなかった加害者も近代的刑法に従って処罰されるから,必ずしも同害報復をうけるわけではない(相手を殺した者が死刑になるとはかぎらない)点で,本来の両成敗法そのままでないことを忘れてはならない。
ところで1701年(元禄14)の江戸城内刃傷事件で,浅野内匠頭だけを切腹・改易に処したのに対し,世間では喧嘩両成敗の原則に反すると批判した。前述した本来の両成敗法に照らしてみれば,吉良上野介は応戦しなかったのだから処罰されなくて当然のはずだが,こうした批判がでたのは,人々が刃傷の原因まで含めて喧嘩と考えたことを示している。このように物理的な闘争だけでなく,紛争一般も両成敗という考え方は,今日の日本人の意識を根強く支配しており,大平正芳と福田赳夫が首相を争った末,三木武夫が〈椎名裁定〉によって指名されたとき,新聞は〈大福・喧嘩両成敗〉と評したほどである(1974年12月2日《朝日新聞》《日本経済新聞》)。
執筆者:石井 紫郎
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喧嘩両成敗法
けんかりょうせいばいほう
戦国時代、喧嘩で暴力を行使した者に対し、理非を問わず当事者双方に刑罰を課した法。日本の中世には、喧嘩で受けた被害に対して、復讐(ふくしゅう)することが強い倫理規範として存在しており、しかも個人的私闘は多く集団的私戦に転化した。こうした私闘に対して室町幕府は1346年(正平1・貞和2)以来しばしば禁令を発し、1352年(正平7・文和1)には、先に攻撃した側は理非を論ぜず所領没収、防戦側は非理(喧嘩の原因に関して正当性がない)の場合は同罪、理ある場合も所領半分没収と定めたが、その後、攻撃側・防御側ともに原因の理非を問わず処罰される方向が強化され、それが戦国大名の分国(ぶんこく)法に継承されて両成敗法となった。両成敗法は要するに自力救済行為を否定し、大名裁判権に強制的にゆだねさせることを目的に制定されたもので、江戸幕府も初期にはこれを採用している。
[新田英治]
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喧嘩両成敗法
けんかりょうせいばいほう
中世武家法にみえる法令であり,私闘を抑圧するために,口論闘争に及んだ当事者双方を,「理非ヲ謂ハズ」同罪に処する条項。この種の法規の初期のものとしては,文安2 (1445) 年,藤原伊勢守の高札が有名である。しかし,かかる法理に則した法令は,すでに南北朝時代に出されている。両成敗法は,戦国期に入ると,さらに一般的となり,分国法の多くは,この法を採用し,ついには「天下ノ大法」と認められるにいたった。進んで,江戸期に入ると,うちつづく泰平の結果,戦時体制下の法である両成敗法は,さすがに姿を消すが,『公事方御定書』には,その名残りとみられる城中口論者に対して,両成敗を定めた規定がみえている。また,この処置が,「天下ノ大法」であることは長く信じられ,成文法を批判する具とされた。日本人の法意識には,理論よりも現実を尊ぶ風があるが,この法は,その好例とみなしうる。
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「喧嘩両成敗法」の意味・わかりやすい解説
喧嘩両成敗法【けんかりょうせいばいほう】
喧嘩の当事者双方に理非を問わず同一の刑を科す規定。戦国時代の分国法に顕著。江戸時代には軍令に使用されたほかは,慣習法として残る。
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世界大百科事典(旧版)内の喧嘩両成敗法の言及
【今川仮名目録】より
… その内容は,検地,境相論,知行地売却,債権債務,相続,不入地など多岐にわたるが,一般的傾向としては,領国統治法としての性格より,家臣統制法の性格が強いといえる。これらの統制法では,相続などすべての分野において厳しい大名の統制が打ち出されているが,それを象徴するのが第8条の喧嘩両成敗法である。この両成敗法は,一揆契約状を除けば最も古く,家臣のあらゆる自力救済行為を禁じ,その紛争を今川氏の裁判権にゆだねることを強制したもので,その制定は,法史上画期的なものとされている。…
【江戸時代】より
…安土桃山時代に続く時代。徳川家康が征夷大将軍になった1603年(慶長8)から,15代将軍徳川慶喜が大政を奉還して将軍を辞した1867年(慶応3)までの265年間を指す。この間,権力の中枢である幕府が江戸に置かれたのでこの呼称があるが,徳川氏が権力を握っていたので徳川時代ともいう。また安土桃山時代のうち豊臣秀吉が全国を統一した1590年(天正18)から1867年までを,その支配体制が[幕藩体制]であったという理由で近世として一括する時代区分が最近では有力である。…
【喧嘩】より
…けんか両成敗というのは,理由を問わず,けんかをした者は両方ともよくない,とくに暴力沙汰になったとき,先に手をだした者が悪いとすることだった。武士間の定めとして15世紀中ごろ,室町時代中期に幕府が〈[喧嘩両成敗法]〉をきめたので,各大名のもとでもその決りが採用され,けんかをした者は重ければ所領没収,軽くても叱責(しつせき)とされた。江戸幕府ができてからはけんか両成敗は慣習上の定めになって法律化はされなかった。…
【成敗】より
…明治維新後,修史館において旧幕府の記録を漢訳するに当たり,〈成敗〉を改めてことごとく〈処斬〉としてしまったという。また[喧嘩両成敗法]にいう成敗も原被両者に死罪を科すという意味であった。【辻本 弘明】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」