四つの現代化(読み)よっつのげんだいか

日本大百科全書(ニッポニカ) 「四つの現代化」の意味・わかりやすい解説

四つの現代化
よっつのげんだいか

今日の中国の国家建設のための基本政策。いわゆる近代化概念を拡大して、それを近代国家形成への歴史過程だと考えれば、文化大革命も「大躍進」政策も、ひいては中国革命そのものも近代化のための試行錯誤プロセスだといえよう。しかし、今日の中国では明(みん)末清(しん)初のときとは異なって、「近代化」という用語を用いずに、あえて「現代化」と表現していることにも含意されているように、いわゆる「四つの現代化(四个現代化)」(「農業工業国防科学技術の現代化」)は、当初は紛れもなく非毛沢東化のための政治戦略だったのであり、それが今日では、中国社会の全体的な経済的向上(具体的指標としては20世紀末までに1人当りGNPを1000ドル相当にする)による富国強兵を求めるための新しい国家目標に転化したのである。

 ここで、「四つの現代化」が国家目標となるまでの経過をみるならば、まず、「四つの現代化」は、1975年1月の第4期全国人民代表大会(全人代)第1回会議における周恩来(しゅうおんらい/チョウエンライ)政府活動報告のなかで明白な輪郭をとって公式に提起された。すなわち、周恩来総理は、文化大革命以前の第3期全人代第1回会議(1964年12月~65年1月)で自ら提案した、中国を「現代農業、現代工業、現代国防、現代科学・技術を備えた社会主義の強国に築き上げる」という目標を回顧し、改めて「比較的整った工業体系と国民経済体系を打ち立て」「国民経済を世界の前列にたたせる」ことの必要性を「四つの現代化」として強調したのであった。

 だが、こうして提起された「四つの現代化」は、具体的な経済計画であるよりは、なによりもまず、脱文革のための政治戦略として推進せざるをえなかったのであり、それだけに、いわゆる文革派の抵抗も大きかった。しかし、1976年9月の毛沢東の死、北京(ペキン)政変(同年10月)によるいわゆる「四人組」失墜(四人組事件)を経て、文化大革命の終結を宣言した1977年8月の中国共産党第11回全国代表大会(十一全大会)では、新しい党規約のなかに「四つの現代化」が明記された。こうして「四つの現代化」は脱文革の表象となったばかりでなく、翌78年2月の第5期全人代第1回会議では華国鋒(かこくほう/ホワクオフォン)政治報告のなかの「国民経済発展十か年計画(1976~85年)」として具体化され、中国の新しい国家目標となった。

 こうした曲折を経て「四つの現代化」が統一的な国家目標として鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)指導下で最終的に定着したのは1978年12月の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(三中全会)においてであった。だが、「四つの現代化」が路線的にも定着するや、それはもはや政治闘争のスローガンではありえなくなり、実行可能なプログラムとしての調整が早くも三中全会で図られたのである。やがて1979年6~7月の第5期全人代第2回会議では、「四つの現代化」を「調整・改革・整頓・向上」させるという名目での規模縮小が決定され、以後、中国では、再三にわたって経済調整が図られて今日に至っている。

 このように中国は、建国30年にしてようやく「開かれた中国」への巨大な転換を遂げ始めたのだが、この転換は、いわば「毛沢東思想」を建国の理念としてきた中国にとっての未曽有(みぞう)の転換を意味するものであるだけに、そこに含まれている矛盾もまたきわめて動態的であるといわねばならない。しかし、いまや「閉ざされた中国」から「開かれた中国」への歴史的移行を経過しつつある中国にとって、脱文革・非毛沢東化の潮流をふたたび逆流させることは、この国の国家的・社会的要請に照らしてももはや不可能であり、従来のような中国政治における「穏歩」と「急進」の往復循環ももはやありえないように思われる。もとより、今日の中国の転換が不可逆的なものだとしても、建国後もつねに激動の政治的振幅を繰り返してきた中国は、社会主義的近代化への基盤をいまだ形成しえていないのであり、膨大な農業社会としての中国の産業構造の転換もなおきわめて困難で、「四つの現代化」を目ざす中国の将来には厳しい試練が待ち受けているといえよう。

 今日の中国は、計画経済と市場経済の結合による経済の合理化を求めて、市場原理の導入、経営管理システムの強化を図るなどさまざまな試行錯誤を重ねている。中国の悲劇を内外に示した1989年の第二次天安門事件を経て1992年1~2月に鄧小平が「南巡」(深圳(しんせん/シェンチェン)、珠海(しゅかい/チューハイ)の経済特区を訪れた南方視察)し「改革開放」を鼓吹した。これを受けて92年秋の中国共産党第14回全国代表大会(十四全大会)以来、江沢民(こうたくみん/チアンツォーミン)指導部のもとで「社会主義市場経済」のテーゼを導入した。だが一方、こうした試みは、社会主義諸原則との抵触をも内包するものであるだけに、中国の現代化の行方には、今後の解決にゆだねるべき多くの問題が依然として残されている。

[中嶋嶺雄]

『中嶋嶺雄著『中国――歴史・社会・国際関係』(中公新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「四つの現代化」の意味・わかりやすい解説

四つの現代化
よっつのげんだいか

中国における工業の近代化,農業の近代化,科学技術の近代化,国防の近代化のこと。 1975年第4期全国人民代表大会 (全人代) に対する周恩来の政府工作報告によって提起されたが,当時文化大革命の政治優先政策が存続したため実行に移されなかった。 76年9月に毛沢東主席が死去,文化大革命が衰えると,四つの現代化が国家建設の具体的な目標として 78年の第5期全人代における華国鋒の政府工作報告によって確認され,政治の失政や経済・技術の立ち遅れで窮乏生活を強いられた国民の新しい求心力になった。しかし,大躍進運動や文化大革命の失敗に対する反省から,特に反体制派は政治の近代化を第5の現代化として主張しはじめた。一方,党中央は改革と開放を推進する過程で,82年9月の十二全大会において四つの現代化の具体的目標として 2000年までに所得を「四倍増」とし,1人あたりの国民総生産 GNPを約 1000ドルとすることを掲げている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「四つの現代化」の解説

「四つの現代化」(よっつのげんだいか)

中国における工業,農業,国防と科学技術の近代化をさす。国の方針として1975年の第4期全国人民代表大会(全人代)によって初めて提起された。しかし,当時の中国は文化大革命末期の混乱のなかにあり,同方針は実行に移されなかった。文革終結後,華国鋒(かこくほう)政権は「四つの現代化」を国策として再強調し,経済建設に力を入れた。80年代以後,改革・開放路線が深まり,近代化の目標は経済から社会・政治体制へと拡大。経済建設中心論が「四つの現代化」に代わり,国の基本方針となっている。

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旺文社世界史事典 三訂版 「四つの現代化」の解説

四つの現代化
よっつのげんだいか

1970年代末から鄧小平が打ち出した中国の改革の方針
党副主席,副首相に復帰した鄧小平が,1977年の中国共産党第11期全国代表大会で「今世紀中に農業,工業,国防,科学技術の現代化を実現する」と発表して党規約にうたわれた。以後鄧小平の権力の確立とともに,中国の改革・開放路線を端的に表す言葉となった。

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世界大百科事典(旧版)内の四つの現代化の言及

【科学技術政策】より

…そして94年に国際科学技術センターが設けられ,活動を開始している。
[中国]
 1960年代後半からの文化大革命等による社会的・経済的大混乱を経験した中国は,その後,経済建設を重視した現実路線へと移行し,75年のいわゆる〈四つの現代化〉政策(20世紀中に農業・工業・国防・科学技術を現代化し,国民経済を世界の前列にたたせる)において,科学技術を四本柱の一つに位置づけた。その後中国は〈社会主義市場経済〉という目標を立て,市場経済システムを取り入れた経済体制への移行を進めている。…

【中華人民共和国】より

…馬は79年に名誉回復され,〈一人っ子政策〉が開始された。〈四つの現代化〉を目指す鄧小平体制は,今世紀末の人口を12億におさえようとしているが,それでも1人当り耕地面積は2割ちかく減少するし,そのためには自然増加率を0.95%以下におさえねばならない。人口問題こそは,現代中国の行方を占う最重要な鍵の一つである。…

※「四つの現代化」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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