四条頼基(読み)しじょうよりもと

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「四条頼基」の意味・わかりやすい解説

四条頼基
しじょうよりもと

[生]寛喜2(1230)頃
[没]永仁4(1296)/正安2(1300)
鎌倉時代中期~後期武士。四条中務三郎左衛門尉頼基(しじょうなかつかささぶろうざえもんのじょうよりもと)。通称四条金吾。法名は日頼。父,頼員(よりかず)に続き,北条氏一門の名越光時(北条光時,江馬光時)に仕えた。日蓮に深く帰依し,文永8(1271)年の竜口(たつのくち)の法難の際には刑場に向かう日蓮に随行したといわれる。医術心得,幕府などによる弾圧のなか晩年の日蓮を看護した。身延山近くの内船(うつぶな)に隠棲し,持仏堂を建立した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「四条頼基」の解説

四条頼基 しじょう-よりもと

1229-1296 鎌倉時代の武士。
寛喜(かんぎ)元年生まれ。北条一門の名越(なごえ)光時につかえる。日蓮に帰依(きえ)し,鎌倉における教団の中心的存在として活躍。日蓮からの書状もおおく,日蓮の著「開目鈔」も頼基を通じて門下にしめされた。医の心得があり,晩年の日蓮を看護。永仁(えいにん)4年3月15日死去。68歳。通称は中務三郎左衛門,金吾。法名は日頼。

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朝日日本歴史人物事典 「四条頼基」の解説

四条頼基

生年生没年不詳
鎌倉後期の武士。頼員の子で四条金吾と称して日蓮に深く帰依し,法名は日頼。文永8(1271)年日蓮が斬首されようとした竜の口の法難ではともに殉じようとしたと伝えられる。日蓮の書状の多くが頼基に宛てられており,日蓮著『開目抄』も頼基を通じて示された。医術に心得があり,主人の名越光時の病を治して勘当を解かれ,日蓮の病の看護にも当たった。

(五味文彦)

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