国家の勢力下にあるいっさいの資源や機能を戦争遂行に最も有効に利用するように統制運用するための措置。帝国主義の時代にはいると戦争は強国,さらには国家群の間の大規模かつ激烈な総力戦となった。膨大な軍隊が動員され,銃砲,弾薬から軍艦,戦車,航空機など破壊力が強大で遠距離を攻撃しうる高度な兵器が大量に消費される消耗戦となり,前線のみならず軍需生産や輸送・通信等の後方勤務に人民と資材が全面的に動員された。政治・財政から科学や芸術までがこれに奉仕させられ,人民の日常生活のすみずみにまで統制が及んだ。戦闘員と非戦闘員との差異が弱まるのと対応して,封鎖や空襲など一般人民への無差別攻撃も始まった。こうしたなかで政府,軍部と結ぶ軍需資本家が肥え太る一方,耐乏と犠牲を強いられる人民の苦痛は増大した。自国民の戦意の維持高揚をはかり,敵国民のそれを圧倒し崩壊させようとする宣伝戦ないし心理戦争が重視された。国家総動員はこのように広範な分野にわたっており,その計画,実施を統括し国政全体との調整をはかることが必要となるが,その仕組みはさまざまである。
フランス革命は国民を徴集した大衆軍隊を生みだし,つづく産業革命はこれに近代的装備を施すことを可能にしたが,第1次世界大戦の前夜でも精鋭の軍隊による運動戦で短期間に勝利を収めることが目標とされた。長期戦による全面動員には国民経済が耐えられないと考えられたのである。だが第1次大戦は大方の予想を裏切って長期にわたる大消耗戦となった。交戦各国ではとりわけ戦争3年目に国家総動員体制が確立した。イギリスでは自由党左派の蔵相ロイド・ジョージが労働組合の協力をとりつけて軍需生産を拡大し初代軍需相となっていたが,1916年11月には首相に任命され,労働代表を含む5大臣で戦時内閣を組織して強力な戦争指導をはかり,ハンキーMaurice Hankeyの指揮する内閣官房が能率的な事務処理にあたった。新設の船舶,労働,食糧,国民兵役の諸省の大臣などには実業家が大幅に起用された。政府が直接に国民に働きかける一方,議会の役割は低下した。連合国の戦争指導と総動員体制を統合することも企図された。イギリスでは政治家が国家総動員を推進したのにたいして,ドイツでは軍人が担当した。封鎖されやすいドイツでは,開戦直後に実業家W.ラーテナウの指導下に戦時原料局が設立され,大工業家や銀行家の協力を得て工業原料の統制を軌道にのせていたが,1916年8月にはヒンデンブルクを参謀総長とする最高統帥部による軍事独裁が成立し,ルーデンドルフが参謀次長兼兵站総監として実権をにぎり,国家総動員を推進した。W.グレーナー中将を長官に戦時庁がつくられ,軍需産業界に巨額の融資をおこなうとともに,労働組合指導者の協力をとりつけて男子労働力の全面動員をはかる祖国補助勤務法を実行に移した。両者のバランスが考慮されたのである。だが経済統制が労働力や生活必需品に及び食糧不足が激化すると,戦時利得者への憎しみや都市と農村との対立は深刻となった。1917年には戦争の重荷にあえぐロシアで社会主義革命がおこるが,この段階では国民の戦意をつなぎとめることが総動員の課題となった。
第2次世界大戦では,その開始に先立って総力戦のための国家総動員の必要が,とくにファシズム諸国で力説された。ナチス・ドイツでは,1933年のヒトラーの政権掌握直後から失業対策と秘密再軍備のために統制経済が発足し,1936年には本格的な戦争準備をめざす4ヵ年計画がゲーリングを大臣として開始された。宣伝相ゲッベルスの手で大規模な宣伝による大衆操作がすすめられ,ニュルンベルクの党大会の演出と宣伝には著名な建築家,音楽家,映画監督らが動員された。だがヒトラーは電撃戦による短期戦をつぎつぎに積み重ねていくことをめざした。彼は全面動員で国内の社会的緊張が激化するのを好まなかった。長期戦のための全面的な軍需動員が開始されるのは,短期戦計画が独ソ戦で破綻して以後である。第2次大戦において国家総動員を最も徹底しておこなったのは,イギリスとソ連であり,消費財生産のきりつめ方や女性の徴集ぶりを見ても明らかである。
日本での国家総動員への動きは,第1次大戦中から陸軍を推進力として始まった。陸軍は開戦直後に臨時軍事調査委員をおき,各国の国家総動員についても研究させた。1918年には寺内正毅内閣のもとで軍需工業動員法が制定され,戦時における軍需工場の管理・収用と労働者の徴用,平時の工場調査と軍需工業の保護・育成を規定し,その事務を統轄するため内閣総理大臣のもとに軍需局がおかれた。臨時軍事調査委員は永田鉄山中佐が中心に〈国家総動員に関する意見〉(1920)をまとめたが,永田ら中堅幕僚はルーデンドルフの総力戦論を学んで総動員体制の推進を企てた。さきの軍需局は国勢院に統合されたのち行政整理で廃止されたが,いわゆる宇垣軍縮では兵器の近代化と総動員態勢の整備がとりあげられ,1926年に陸軍省に整備局,翌年内閣に資源局がおかれ,国家総動員の準備にあたることとなり,資源局には陸海軍人も出向した。だが当時の陸軍は将来戦は長期戦になると判断したものの,日本の国力からみて総力戦は至難だとして,奇襲開戦と連戦連勝による短期戦を戦略の基本においていた。
世界恐慌と満州事変で〈非常時〉が激化すると,国防国家の建設をめざす軍部の動きも活発化し,1935年には政策統合にあたる内閣調査局がつくられ,軍部と革新官僚との結びつきが始まった。二・二六事件後には参謀本部の中枢を占めた石原莞爾(かんじ)らは〈満州国〉にならって首相のもとに強力な総務庁をおいて国政全般を指導させ,生産力拡充を目標に国家総動員を強行しようとした。しかし,海軍の反対によって,1937年に内閣調査局の後身の企画庁と資源局とが合併して企画院ができたが,物資動員(物動)計画など国家総動員の事務機関にとどまり,各省にたいする優越性はもたなかった。〈支那事変〉(日中戦争)が始まると軍需工業動員法がとくに発動されたが,1938年には戦時またはこれに準ずる事変に際し政府に国家総動員のための広範な命令権を認める国家総動員法が,議会の審議権を剝奪するとの批判を押しきって制定された。だが戦争遂行と生産力拡充とを併進させることは困難で,国際収支の悪化や労働力不足などのネックにぶつかった。太平洋戦争の段階では資材や船腹の配分をめぐって作戦用と軍事生産用,陸軍用と海軍用などの分捕り合戦が激化し,統帥権の壁がその合理的な調整を困難にした。日本が全面的な軍需動員にふみきったのはガダルカナル敗戦後の1943年の初めからで,民需を無視したねこそぎ動員が強行された。11月には陸海軍の航空機生産を一元化するため,商工省と企画院に代えて軍需省がつくられ,軍需会社はさらに特別の優遇措置をうけた。だが基礎資材の生産はすでに低下する一方で,最重点の航空機生産もアメリカ軍の本土空襲に先立って1944年秋には減少に転じていた。統帥権をふりかざし軍の威圧ですすめられた国家総動員が,その内実のもろさを露呈したものといえよう。
→統制経済
執筆者:今井 清一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…そしてこのような内部矛盾をかかえた天皇制ファシズムは,敗戦とともに崩壊した。
[経済と国民生活の状況]
日中戦争勃発後に本格化した戦時統制経済は,国家総動員法(1938年4月1日公布)を“てこ”として発展していたが,太平洋戦争開戦を契機に経済と国民生活に対する統制が一段と強化された(統制経済)。まず重要産業団体令(1941年8月30日公布)に基づき,1942年(昭和17)8月までに22の重要基幹産業部門に統制会が設立され,会長には財界人が就任し,企業整備令(1942年5月13日公布)により中小企業の整理統合と下請企業化が推し進められ,ここにファシズム型戦時国家独占資本主義体制が完成した。…
…しかし,依然として兵力の拡充・補充を円滑にし,また特に軍需物資の運用を効率的にするため,動員の計画を定め,即応態勢をとるのが普通である。なお,国家総動員とは,一切の人的・物的,有形・無形の資源を国防目的達成のため統制運営することをいう。【塚本 勝一】。…
※「国家総動員」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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