ゲーリング(読み)げーりんぐ(英語表記)Hermann Göring

デジタル大辞泉 「ゲーリング」の意味・読み・例文・類語

ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring)

[1893~1946]ドイツの軍人・政治家ナチス指導者ヒトラー政権下で空相・プロイセン首相を兼任。ゲシュタポを組織、空軍の再建と軍備拡大を推進した。第二次大戦後、戦争犯罪人として死刑を宣告されたが、処刑直前に自殺。

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精選版 日本国語大辞典 「ゲーリング」の意味・読み・例文・類語

ゲーリング

  1. ( Hermann Wilhelm Göring ヘルマン=ウィルヘルム━ ) ドイツの政治家、軍人。ナチス政権下の空相兼プロイセン首相。ゲシュタポを組織。第二次世界大戦後戦犯として死刑の判決を受けたが、処刑直前に自殺。(一八九三‐一九四六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ゲーリング」の意味・わかりやすい解説

ゲーリング(Hermann Göring)
げーりんぐ
Hermann Göring
(1893―1946)

ナチス・ドイツの指導者。国家元帥をはじめ16の官職、称号をもつといわれた。領事の子に生まれ、士官学校に学び、第一次世界大戦では空軍将校として活躍した。1922年ナチス党に入り、同党の突撃隊(SA(エスアー))を組織し、1923年のミュンヘン一揆(いっき)に参加して腰に負傷した。1928年国会議員となり、1932年国会議長に選出された。交際は広く、ヒトラーを財界軍部、大統領に結び付け、その政権成立を裏面から支えた。1933年ヒトラー内閣に入ったが、プロイセン内相を兼ねてゲシュタポ(国家秘密警察)を組織し、航空相としては空軍の再建を図り、1935年再軍備宣言とともに空軍司令長官となった。また1936年四か年計画長官として軍備拡大を推進し、アウタルキー自給自足経済)の実現に努めた。1939年9月ヒトラーにより後継者に指名されている(1941年6月法制化)。第二次世界大戦では空軍を指揮したが、対イギリス戦で失敗し、以後、政治的、軍事的威信を失った。1945年4月末ヒトラーにかわって総統になろうとして、その怒りを買い、全官職を剥奪(はくだつ)され、5月初め新総統デーニッツに英米軍との和平交渉を申し出たが、無視された。ニュルンベルク国際軍事裁判絞首刑を宣告されたが、処刑2時間前に自殺した。

[吉田輝夫]


ゲーリング(Reinhard Goering)
げーりんぐ
Reinhard Goering
(1887―1936)

ドイツの劇作家。医学を学び、第一次世界大戦中は軍医を勤める。結核で退役し、療養中に書いた戯曲『海戦』(1917)で一躍表現主義の代表的劇作家と目され、クライスト賞を受賞。これは築地(つきじ)小劇場杮落(こけらおと)しに土方与志(ひじかたよし)演出で上演され(1924)、わが国新劇界に大きな影響を与えた。ほかに新即物主義的戯曲『スカパ・フロウ』、『救い手』(ともに1919)があり、二度目のクライスト賞受賞作『スコット大佐の南極探検』(1930)は実存主義の先取りとも評される。精神科医院を開業したこともあるが、放浪癖のため定住できず、ヨーロッパ各地を転々とし、36年イエナで自殺を遂げた。

[山本 尤]

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改訂新版 世界大百科事典 「ゲーリング」の意味・わかりやすい解説

ゲーリング
Hermann Göring
生没年:1893-1946

ヒトラーに次ぐナチス党第二の実力者。総統後継者で〈帝国元帥Reichsmarschall〉という別格の称号をもち(1940以降),ドイツ空軍の創設者であると同時に,〈四ヵ年計画全権委員〉として経済界の実力者でもあり,〈帝国企業ヘルマン・ゲーリング〉によって巨富を得た。植民地官僚の息子として生まれ,第1次大戦の花形パイロットを経て1922年末に入党,23年11月のミュンヘン一揆にも参加した。ワイマール共和制崩壊期には国会議長,第三帝国成立期にはプロイセン警察のナチス化に大きな役割を演じた。ニュルンベルク裁判では,ナチスの政策を擁護し,死刑判決後自殺した。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ゲーリング」の意味・わかりやすい解説

ゲーリング
Göring, Hermann (Wilhelm)

[生]1893.1.12. 南バイエルン,ローゼンハイム
[没]1946.10.15. ニュルンベルク
ナチス党の幹部。第1次世界大戦に飛行中隊で活躍,1922年ナチスに入党,SA (ナチス突撃隊) を組織し 23年のミュンヘン一揆に参加したが,失敗して亡命した。 26年に帰国,28年に国会議員,32年に国会議長となり,ナチス政権に無任所相として入閣,同時にプロシア州内相 (のち首相) を兼任した。航空相,空軍総司令官,4ヵ年計画長官を歴任し,軍備拡張を強力に推進。第2次世界大戦に際して A.ヒトラーの第1後継者に指名されたが,戦争末期に意見の対立からすべての官職を剥奪された。ニュルンベルク国際軍事裁判で絞首刑を宣告されたが,処刑直前に服毒自殺した。

ゲーリング
Goering, Reinhard

[生]1887.6.23. フルダ近郊
[没]1936.11.14. イェナ近郊
ドイツの劇作家,小説家。表現主義を代表する一人で,反戦をテーマにした作品で知られる。自殺をとげた。代表作は悲劇『海戦』 Seeschlacht (1917) 。第1次世界大戦中のスカゲラク海戦を扱ったもので,日本でも築地小劇場のこけら落しに上演された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ゲーリング」の解説

ゲーリング
Hermann Göring

1893~1946

ドイツの軍人,ナチスの巨頭。第一次世界大戦では空軍将校として活躍。1922年ナチ党に入党し,突撃隊(エス・アー〈SA〉)を指導。33年ヒトラー内閣に入閣,プロイセン内相を兼ね,ゲシュタポを組織した。ついで航空相,四カ年計画長官となり軍備拡大を強行,軍需生産のため外国人労働者を酷使した。空軍司令官としてポーランド猛爆を指揮し国家元帥となる。ニュルンベルク国際軍事裁判で絞首刑を宣告され自殺。

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百科事典マイペディア 「ゲーリング」の意味・わかりやすい解説

ゲーリング

ドイツの軍人,政治家。1922年ナチスに参加,突撃隊を指導。1933年ナチス政権樹立とともに入閣,ゲシュタポを組織,軍需工業と軍備の拡大を強行し,1940年国家元帥となりヒトラーの後継者に指名された。ニュルンベルク裁判で死刑を宣告されたが,自殺。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ゲーリング」の解説

ゲーリング
Hermann Göring

1893〜1946
ナチス−ドイツの軍人・政治家
1922年ナチスに入党し,23年のミュンヘン一揆に参加。以後,ナチス政権の航空相・空軍総司令官となり,ヒトラーに次ぐ勢力をもった。1940年元帥。敗戦直前にヒトラーと仲違いし,すべての官職を奪われた。敗戦後ニュルンベルク裁判で戦犯となり死刑を宣告されたが,処刑直前に自殺した。

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世界大百科事典(旧版)内のゲーリングの言及

【ゲシュタポ】より

…ナチズムのテロ支配の中核組織。1933年4月,プロイセン内相となったゲーリングがプロイセン政治警察を吸収して創設したが,翌34年4月以降,ナチス親衛隊SS隊長ヒムラーの指揮下に入った。さらに第2次大戦開始の直後(1939年9月)にハイドリヒReinhard Heydrich(1904‐42)を長官とする〈帝国保安本部RSHA〉が設けられると,ゲシュタポはその第四局(局長はミュラーHeinrich Müller)となった。…

【退廃芸術展】より

…39年3月ベルリンで1040点の絵画・彫刻,3825点の水彩,素描,版画が焼却されたが,競売で国内外に安売りされたものもある。ゲーリングが,ベルリンのカリーン・ハレ接収時やパリ占領時に多くの近代美術を略奪し私物化したことは有名。他方,退廃芸術展についてゲッベルスに抗議した彫刻家シュレンマー,4年にわたる抗議で彫刻家レンブルックの遺作の大半を回収した未亡人アニタなどの存在は忘れられない。…

※「ゲーリング」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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