国家総力戦ともいう。総力戦は戦争形態の面からみれば,20世紀の帝国主義時代における現代的国民戦争の一形態である。それは旧来の武力戦のみの戦争と異なり,武力戦を中心としつつ軍事,政治,経済,思想,文化など国家の総力をあげての激烈かつ長期にわたる過酷な戦争であり,とりわけその国の経済力と国民の政治的,思想的団結力が決定的に重要な意味をもつ戦争である。そして総力戦を戦いぬくためには,国家総力戦体制,すなわち一国のすべての国民と物的資源を有機的かつ有効に組織,統制,動員し,現代戦争を遂行するために必要な一元的戦争指導体制を樹立することが緊急の課題となる。
総力戦として戦われた最初の戦争は,第1次大戦(1914-18)であった。イギリス,フランス,ロシア,ドイツなどの参戦国では,食糧や物資の配給,生産統制などの戦時統制経済が実施されるとともに,国民を積極的に戦争に参加させるための政治的・思想的動員が行われた。このような経験をもとに総力戦を論じ,世界的に大きな反響をよんだのが,ルーデンドルフ(元ドイツ国防軍参謀次長)の著書《国家総力戦》(1935)であった。そして第2次大戦(1939-45)は,第1次大戦をはるかに上回る歴史上未曾有の総力戦となり,膨大な人命と物資が失われ,国家統制は経済,政治,思想,文化などすべての分野に及んだ。総力戦体制の面からみると,第2次大戦時には民主主義型(アメリカ,イギリスなど),ファシズム型(日本,ドイツ,イタリア),社会主義型(ソ連)という三つのタイプが存在した。すなわちアメリカ,イギリスなどでは,基本的人権の部分的制限や行政権の肥大化などの問題をはらみながらも,基本的には議会制民主主義を維持しつつ総力戦体制が構築され,日本,ドイツ,イタリア3国では立憲主義や議会制民主主義の全面否定のうえにファシズム権力による総力戦体制が築かれ,ソ連では社会主義制度に基礎をおく総力戦体制が作られた。
日本では第1次大戦末期から陸軍を中心に総力戦の研究が始まったが,実際に総力戦体制が構築されはじめたのは日中戦争勃発後である。1937年の輸出入品等臨時措置法など3法と38年の国家総動員法の制定によって戦時国家独占資本主義が成立し,戦時統制経済が全面化した。さらに国家権力による国民の画一的組織化は,大政翼賛会や国民義勇隊などの官製国民運動団体の結成,青少年団,婦人会,在郷軍人会など既成の教化団体の育成と統合,学校制度の再編成,天皇制イデオロギーの注入などを通じて達成された。徹底した言論,思想,文化の統制も行われ,総力戦体制の研究ならびに軍官民の中堅指導者を再教育するための内閣直属機関として総力戦研究所(1940年10月1日~45年3月31日)が創設された。しかし大日本帝国憲法が定める分立的国家機構が障害となり,国務と統帥の矛盾をはじめとする支配層内部の矛盾と対立は解決されず,日本は一元的戦争指導体制を確立しえないまま敗戦を迎えた。
→国家総動員
執筆者:木坂 順一郎
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軍事力だけの戦争でなく、国家全体の人員、物質、イデオロギーを用いて行う戦争。
1914年(大正3)8月に開始された第一次世界大戦は、それまでの戦争と比較して、戦争の形態、様相、方法、領域などの面でまったく新しい内容をもつものであった。それは大量消費、大量動員、大量破壊を特徴とし、経済、思想、精神動員を内容とする総力戦体制確立を最大課題として提起した。この総力戦体制確立を必須(ひっす)とした戦争形態を、フランス王党アクシオン・フランセーズのレオン・ドーデは総力戦という概念で要約し、1918年『総力戦』La guerre totaleを著した。総力戦概念を一般に定着させたのはドイツの将軍エーリヒ・ルーデンドルフで、1935年に『国家総力戦』Der totale Kriegを刊行し、日本陸軍にも多大の影響を与えることになった。ルーデンドルフは、第一次大戦後に生起すると予想された戦争においては、文字どおり国家および国民の物質的、精神的全能力を動員結集し、これを国家の総力として戦争に臨む必要があり、国民皆兵主義の徹底化による兵力の大量動員を前提とし、重工業の発達と技術の飛躍的進歩を基盤とする近代兵器の大量生産、大量使用を必然化するとした。そこから当然、戦争様相の激烈性、殲滅(せんめつ)性と戦争手段の大量性、機動性を招来するとした。これらルーデンドルフの所論から、総力戦準備の必要性を認識した日本陸軍は、早くも第一次大戦中から国内における総力戦体制の研究準備を開始し、その過程で総力戦体制構築の主導権を握り、政治的発言権を強めていった。
第二次大戦は、より徹底した総力戦となり、戦争の惨禍は、第一次大戦と比較して著しく深刻となった。総力戦の徹底化による戦争の全体化は戦争終結を困難にし、さらには戦後処理を厳しいものとした。しかし、核兵器の出現によって戦争の全面化は不可能となり、総力戦という戦争形態の出現の機会は事実上終わったといえる。なお、total warを全体戦争と訳す場合もあるが、総力戦という訳のほうが一般的である。
[纐纈 厚]
『纐纈厚著『総力戦体制研究』(1981・三一書房)』
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国の総力をあげて戦う戦争。国民国家の発達とともに徴兵制による大量の兵力の動員が可能になり,また長期の戦争には,大兵力を維持しつつ,武器・弾薬や食料原料の生産,輸送を効率的に行うこと,つまり国の人的・物的資源すべてを戦争に有効に活用することが必要になった。第一次世界大戦および第二次世界大戦は主要参戦国にとってそのような戦争だったので,総力戦という言葉が普及した。
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第1次大戦によりうまれた新しい戦争の形態または概念。戦闘員による戦闘のみが勝敗を決める要因ではなく,国家全体の経済力・技術力・軍事力・政治力をいかに効果的に戦争指導に結びつけるかが重視された。日本でも大正期から第1次大戦参戦国の戦時動員形態の研究が行われ,1926年(昭和元)陸軍省の整備局動員課設置,満州事変後の広義国防国家の提唱,38年の国家総動員法の制定などへと進んだ。
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…国家の勢力下にあるいっさいの資源や機能を戦争遂行に最も有効に利用するように統制運用するための措置。帝国主義の時代にはいると戦争は強国,さらには国家群の間の大規模かつ激烈な総力戦となった。膨大な軍隊が動員され,銃砲,弾薬から軍艦,戦車,航空機など破壊力が強大で遠距離を攻撃しうる高度な兵器が大量に消費される消耗戦となり,前線のみならず軍需生産や輸送・通信等の後方勤務に人民と資材が全面的に動員された。…
…ついで16年4月24日から30日にかけて同じスイスのキーンタールで開かれた第2回目の会議では,戦況の行詰りを反映し,革命派の勢力が増大した。 高度な段階に入った資本主義時代の戦争は第一線での軍人の巧みな作戦指導によるよりも,むしろ銃後の国民による軍需生産力の総結集によって勝負の決まる総力戦である。そのため各国とも大戦の進展する中で,国民の全体を総動員する体制を組織することを急いだ。…
※「総力戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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