デジタル大辞泉
「土井辰雄」の意味・読み・例文・類語
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土井 辰雄
ドイ タツオ
大正・昭和期のカトリック枢機卿 元・東京大司教。
- 生年
- 明治25(1892)年12月22日
- 没年
- 昭和45(1970)年2月21日
- 出生地
- 宮城県仙台市
- 別名
- 洗礼名=ペトロ
- 学歴〔年〕
- 第二高等学校〔大正3年〕卒,ウルパノ大学卒
- 経歴
- 明治35年父母姉妹弟と共に受洗。大正3年司祭を志しローマのプロパガンダ神学校に留学、哲学と神学を研究。帰国して10年に司祭に叙階され、盛岡四ツ家、一関、気仙沼、会津若松各教会の司祭を歴任。昭和9年ローマ教皇庁の日本駐在使節パウロ・マレラの秘書を経て、13年日本人として初めて東京大司教に叙階された。カトリック教会は16年日本天主公教団と改称、統理者として国策に協力、教団維持に努めた。20年には多くの教会が空襲で全焼したが、東京カテドラルを再建し、35年教皇ヨハネス23世により日本人初の枢機卿に親任された。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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土井辰雄
どいたつお
(1892―1970)
カトリック指導者。洗礼名ペトロ。仙台市出身。1920年(大正9)ローマ・ウルバノ大学卒業。1921年カトリック司祭になる。1921年から1933年(昭和8)まで東北地方の諸教会で司牧(しぼく)にあたった。1933年から4年間、駐日教皇使節マレラ大司教Paolo Marella(1895―1984)の秘書を務め、1937年に東京大司教に任命された。1960年(昭和35)に日本人として最初の枢機卿(すうききょう)にあげられた。日本カトリック司教協議会初代会長。軍国主義の嵐(あらし)吹きすさぶ時代、カトリック教会も風前のともしびであったが、謙譲で温厚篤実な人柄のなかにも東北人特有の粘り強さと賢明な指導で、カトリック教会を救ったといわれる。
[越前喜六 2018年3月19日]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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土井辰雄
どいたつお
[生]1892.12.22. 仙台
[没]1970.2.21. 東京
カトリックの聖職者,東京大司教,日本最初の枢機卿。第二高等学校を経てローマの教皇庁立プロパガンダ大学に哲学,神学を学ぶ。 1920年帰国,21年司祭となり,一関,気仙沼,若松で伝道に従事。 34年,駐日教皇使節秘書に抜擢され,38年,バチカンによる日本教会の邦人化政策により東京大司教に任じられた。第2次世界大戦中は教皇使節マレラ大司教と緊密に協力しつつ,軍部の圧迫から弱小な日本カトリック教会を守るために肝胆を砕いた。 41年,宗教団体法の成立とともに日本天主公教団の設立を認められてその統理となり,神社参拝を容認した。戦後は教会の復興に努力し,その功によって 60年枢機卿に任じられた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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土井辰雄 どい-たつお
1892-1970 大正-昭和時代のカトリック指導者。
明治25年12月22日生まれ。二高を卒業後,ローマのウルバノ大に留学して哲学と神学をおさめる。大正10年司祭。駐日教皇使節の秘書をへて,昭和13年東京大司教。35年日本人初の枢機卿(すうききょう)となる。昭和45年2月21日死去。77歳。宮城県出身。洗礼名はペトロ。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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土井辰雄【どいたつお】
ローマ・カトリック教会の枢機卿,東京大司教。仙台市出身。旧制二高卒後,ローマに留学。帰国後は司祭として東北地方の教会で働き,戦争中はカトリック教会を統合して日本天主公教団と称し,軍部から信徒を守った。1960年日本人初の枢機卿。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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土井 辰雄 (どい たつお)
生年月日:1892年12月22日
大正時代;昭和時代のカトリック枢機卿。東京大司教
1970年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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