土山庄(読み)つちやまのしよう

日本歴史地名大系 「土山庄」の解説

土山庄
つちやまのしよう

夢前ゆめさき川左岸の現土山地区を中心とした一帯に比定される。なお南北朝期に庄内の村名としてみえる「萩原村」「中井村」を現龍野市萩原はいばら中井なかいに比定すると、当庄は散在庄園であった可能性があるが、両村は現在の土山地区周辺にあったとも考えられる。領家は奈良薬師寺で、薬師やくし庄とも称された。正安二年(一三〇〇)閏七月二三日の六波羅下知状案(八坂神社文書)によると、「播磨国土山庄」をめぐって領家薬師寺の雑掌永重と北条得宗家の地頭代下山弥四郎高盛の代官である為成との間に相論があったが、同年七月に和与が成立している。正和二年(一三一三)三月一五日、得宗公文所奉行人は摂津国多田ただ(現川西市)常行堂などの供養のため、当庄に棟別一〇文および使僧が在庄の間は用夫三人・馬一疋を出すよう命じている(「得宗公文所奉行人連署奉書」多田神社文書)

延文二年(一三五七)一〇月一二日の足利義詮御判御教書(広峯神社文書)などによると、「土山庄号薬師庄」の地頭職鎌倉幕府滅亡に伴って得宗家の手を離れ、建武三年(一三三六)二月六日に足利尊氏によって広峯ひろみね社ヒロミネジンジヤに寄進された。しかし地頭職についての明確な規定がなかったこともあってか広峯社による経営は困難で、暦応二年(一三三九)当庄内の萩原村地頭職は浦上孫三郎に(同年六月一八日「室町幕府引付頭人奉書」広峯文書)、同じく中井村地頭職は布施彦三郎入道に押領されている(同年三月四日「室町幕府引付頭人奉書」広峯神社文書)。延文四年には当庄が兎原うはら住吉社(現神戸市東灘区)の神官若狭前司江左衛門尉に押領されている(同年一〇月二五日「足利義詮御判御教書」広峯文書)


土山庄
はやまのしよう

維摩会の蕗免田と公田畠の雑役免からなる興福寺領荘園。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の山辺郡に「土山庄五町六反三百歩 不輸免田畠四町 公田畠一町六段三百歩」とある。

同文書によれば、不輸免田畠は「蕗免田四町」で、所在は「塞川里」(六筆)・「土山里」(一〇筆)である。公田畠の所在はおそらく土山里であろう。なお土山庄の所在は同文書記載の里名からは明らかでないが、一応現大字吐山はやまかと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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