地蔵院跡(読み)じぞういんあと

日本歴史地名大系 「地蔵院跡」の解説

地蔵院跡
じぞういんあと

[現在地名]常北町上青山

上青山かみあおやまの内にあったが所在地は未詳。猿福山清光せいこう寺と号し、真言宗本尊は未詳。応永二九年(一四二二)に尊宥が開山。願行流血脈(小松寺文書)は「此尊宥宥尊法印秘蔵児童ニ、十七歳出家受戒、依之口決秘事大等等ハ、尊宥ニ伝受シ玉フ、殊ニ御実名宥尊ノ二字、直ニ尊宥ト被成下、遷化ノ時迄奉仕シ玉フ」と記す。また長享二年(一四八八)一一月一五日の尊用授尊翁印信(小松寺文書)、明応一〇年(一五〇一)一〇月二二日の尊翁授尊清印信(同文書)には「常州那珂西青山地蔵院檀場」とみえる。中世佐久山さくやま方の真言宗の有力な道場であったと思われる。

寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)には除地六石余、末寺四ヵ寺、門徒一四ヵ寺を有したとある。


地蔵院跡
じぞういんあと

[現在地名]楠町大字船木

旧山陽道に沿った船木ふなきの市街地から北西の山寄りにあった小寺院跡。現在地蔵寺じぞうじ地名が残る。

「注進案」に「古墓壱ケ所 (地)蔵寺村ニ有之 往古より有之、誰人の墓と申儀不詳、諺ニ山伏之墓と申伝候事」とある。しかし地元では正円しようえん寺の由緒と関係して、大内義隆滅亡のとき天文二〇年(一五五一)殉死した伊予須(次)摂津の墓という説がある。


地蔵院跡
じぞういんあと

[現在地名]下松市大字末武上

慶長四年(一五九九)の地蔵院所蔵文書(「注進案」所収)の「防州都濃郡末武花岡八幡宮目録(案)書事」によれば、花岡はなおか八幡宮の社坊九ヵ寺の筆頭で、山号を金生山と号し、本尊は延命地蔵菩薩であったが、明治二年(一八六九)住僧の還俗により廃院となった。

近世初期には花岡八幡宮は大社で、その社務は地蔵院を中心に社坊九ヵ寺で行われていたらしい。それ以前地蔵院は一時無主のことがあったらしく、天文六年(一五三七)頃の陶興房署名のある文書(「注進案」所収)に「地蔵院事近年二位公令存知之処、依為不慮之覚悟当時既無主候、然者及大破之由申候、不可然候、有再住諸篇被申付候者肝要候」とあり、天文一九年の陶隆房(晴賢)の文書には「末武花岡地蔵院住持職之事、重円公可存知者也」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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