デジタル大辞泉
「坂田三吉」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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さかた‐さんきち【坂田三吉】
- 将棋棋士。大阪府堺市の出身。独学で坂田流向かい飛車などを創案。大正一四年(一九二五)関西名人を自称し、以後一六年間、棋界から孤立。死後、昭和三〇年(一九五五)に将棋連盟から名人位、王将位が追贈された。その生涯は「王将」のタイトルで劇、映画、歌の題材とされている。明治三~昭和二一年(一八七〇‐一九四六)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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坂田 三吉
サカタ サンキチ
明治〜昭和期の棋士 将棋8段。
- 生年
- 明治3年6月3日(1870年)
- 没年
- 昭和21(1946)年7月23日
- 出生地
- 大阪府堺
- 本名
- 阪田 三吉
- 経歴
- 生涯読み書きはできなかったが、将棋は全くの天才で、大正4年独学で8段に登る。この間、明治26年頃名を秘した関根金次郎13世名人(当時4段)に負け、以来打倒関根と日本一が生涯の目標となる。大正6年次期名人を決める対決で関根を破るが、その弟子土居市太郎7段に敗れ、名人への野望は絶たれた。14年かってに関西名人を名のって東京棋界と絶縁するが、のち和解して昭和13年には第2期名人戦に出場し7勝8敗。晩年は不遇であった。没後、30年日本将棋連盟から名人位と王将位を追贈された。波瀾に富んだ激しい生涯は芝居・映画・歌謡曲の「王将」にもなって人気を呼んだ。門下に星田啓三7段、藤内金吾8段がいる。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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坂田三吉 (さかたさんきち)
生没年:1870-1946(明治3-昭和21)
関西の将棋棋士。大阪府堺市の生れ。独力で将棋に強くなり,1925年関西名人を自称したことから関東の棋士たちと対立する。のち和解したが,晩年は不遇。没後の55年に実力が認められて日本将棋連盟より〈名人位〉〈王将位〉が追贈された。その翌年大阪府豊中市の服部霊園に墓碑が建てられた。北条秀司作の新国劇《王将》(1947初演)や映画《王将》《王将一代》,演歌《王将》のモデルとして無学奇行が誇張されて伝えられている。
執筆者:増川 宏一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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坂田三吉 さかた-さんきち
1870-1946 明治-昭和時代前期の将棋棋士。
明治3年6月3日生まれ。独学で大正4年8段となる。14年名人を自称し,約16年間中央棋界と対立。死後,名人・王将位をおくられた。生涯,関西を本拠とし,関根金次郎8段との対局や妻こゆう(北条秀司(ひでじ)の戯曲「王将」では小春)とのエピソードは映画,演劇,歌謡曲などで有名。昭和21年7月23日死去。77歳。大阪出身。阪田とも。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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坂田三吉
さかたさんきち
[生]明治3(1870).堺
[没]1946
将棋棋士。読み書きはできなかったが,将棋では天才とうたわれ,1916年独学で8段に昇進し,38年には第2期名人戦に出場した。関根金次郎との名勝負は有名である。没後,日本将棋連盟から名人位と王将位を追贈された。将棋一途に生抜いた数奇な生涯は第2次世界大戦後劇作家北条秀司の手で『王将』として劇化され,芝居や映画,演歌で人気を博した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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坂田三吉【さかたさんきち】
将棋棋士。堺市生れ。1916年独学で8段になる。関根金次郎など東京棋界に対抗,1925年関西名人を名乗って棋界から孤立したが,のち和解。強烈な攻めを得意とした。波乱に富む生涯は《王将》など劇・映画になった。死後,1955年日本将棋連盟より名人位,王将位が追贈された。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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坂田 三吉 (さかた さんきち)
生年月日:1870年6月3日
明治時代-昭和時代の棋士
1946年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の坂田三吉の言及
【将棋】より
…08年国民新聞と万朝報(よろずちようほう)が将棋欄を設けたので将棋への関心は高まったが,翌09年棋譜掲載の独占をねらって万朝報が〈将棋同盟会〉をつくると,国民新聞も対抗して井上義雄八段らによる〈将棋同志会〉を結成した。同じころ大阪の[坂田三吉]七段が〈関西将棋研究会〉をつくり16名を組織して当時の最大の集団になった。15年坂田は小野名人の免許で八段になり,名実ともに関西将棋界の頂点に立った。…
【阪東妻三郎】より
…稲垣浩監督),《素浪人罷通る》(1947。伊藤大輔監督)や老練の円熟した立回りが印象的な伊藤大輔監督《おぼろ駕籠》《大江戸五人男》(ともに1951)で阪妻ならではの風格と貫禄を見せるが,晩年に至る名優・阪妻の人間的な魅力とイメージを決定づけたのは,〈無知〉な庶民(車夫)の純粋無垢な魂を描いた稲垣浩監督《[無法松の一生]》(1943)から,これも〈無学文盲〉の徒(将棋一途の無知で気のいい男・坂田三吉)の気高い魂を描いた伊藤大輔監督《王将》(1948)をへて,うわべはいばり散らしているものの根は無邪気でお人よしの〈雷親父〉の喜劇を描いた木下恵介監督《破れ太鼓》(1949)に至る現代劇であろう。51歳で病死。…
※「坂田三吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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