関根金次郎(読み)セキネキンジロウ

デジタル大辞泉 「関根金次郎」の意味・読み・例文・類語

せきね‐きんじろう〔‐キンジラウ〕【関根金次郎】

[1868~1946]将棋棋士。13世名人千葉の生まれ。10世名人伊藤宗印に入門。江戸初期からの世襲制名人位を返上実力名人位への橋渡しをした。

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精選版 日本国語大辞典 「関根金次郎」の意味・読み・例文・類語

せきね‐きんじろう【関根金次郎】

  1. 将棋棋士。下総国東宝珠花村(千葉県野田市関宿)出身。一一世名人伊藤宗印門下。大正一〇年(一九二一)一三世名人となるが、名人世襲制度を否定し、実力名人制を行なった。明治元~昭和二一年(一八六八‐一九四六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「関根金次郎」の意味・わかりやすい解説

関根金次郎
せきねきんじろう
(1868―1946)

将棋棋士。千葉県東宝珠花(ひがしほうしゅばな)(現野田市)の生まれ。11歳で11世伊藤宗印名人に入門。棋界の不振時代に全国を行脚(あんぎゃ)、修行し、弟子の発掘に尽くした。1905年(明治38)8段、21年(大正10)13世名人となる。35年(昭和10)名人世襲制度を捨て、自ら引退して実力名人制を実施し、現代に続く新聞棋戦を確立した。親分肌で人間味にあふれ、対阪田三吉戦をはじめ棋道行脚に数多く逸話を残す。後進の育成にも尽力し、門下には土居市太郎、金易二郎(こんやすじろう)、花田長太郎木村義雄(よしお)など名棋士を出している。直門に限らず明治・大正生まれの棋士には彼に指導感化された者が多い。関根流の「春風のやうにさらりと指すべし」の名人戦講評、泰然とした正座対局、あふれる人情味は、大名人の風格があった。野田市東宝珠花に将棋の駒をかたどった墓碑がある。

原田泰夫

『木村義雄他監修『日本将棋大系13』(1980・筑摩書房)』

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20世紀日本人名事典 「関根金次郎」の解説

関根 金次郎
セキネ キンジロウ

明治〜昭和期の棋士 将棋名人。



生年
慶応4年4月1日(1868年)

没年
昭和21(1946)年3月12日

出生地
千葉県関宿町

経歴
12歳の時、将棋修業のため郷里を出、当時の11世名人伊藤宗印に入門、38年8段。終身名人制の時代で、小野五平12世名人が大正10年に死去して初めて13世名人となった。7段の頃から全国各地を歩き、多数の免状を発行したが、大阪で坂田三吉と対戦し、5段半の免許を与えたという。大正6年の坂田三吉との名人位をかけた対決はのちに芝居・映画・歌謡曲の「王将」として有名になる。昭和10年には名人の世襲制度を廃止し、実力名人戦創設の提案を受け、自ら引退、短期名人制を確立。土居市太郎名誉名人、木村義雄14世名人ら多数の棋士を育てた。口述筆記の著書「棋道半世記」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「関根金次郎」の意味・わかりやすい解説

関根金次郎 (せきねきんじろう)
生没年:1868-1946(明治1-昭和21)

第13世将棋名人。千葉県に生まれる。12歳で11世名人伊藤宗印に入門,1905年八段,21年に名人位に就く。明治期の将棋界衰微を体験したため棋界の団結を望み,24年の東京将棋連盟結成に尽力した。35年世襲制名人を廃止し実力による名人位を提唱,自発的に引退して近代的な制度確立の範を示した。これにより約300年続いた将棋の家元制度は廃止され,将棋界発展の基礎がつくられた。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「関根金次郎」の意味・わかりやすい解説

関根金次郎【せきねきんじろう】

将棋棋士。千葉県生れ。12歳で上京し,11世名人伊藤宗印に師事。1905年8段に昇段。井上義雄,坂田三吉との対局が人気を呼び,衰微していた棋界の復興に貢献した。1921年13世名人に就任。1935年世襲制名人の廃止,実力による名人戦の新設を提唱して名人位を引退,これによって300年続いた家元制度は廃止され,のちの発展の基礎が作られた。
→関連項目木村義雄将棋

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「関根金次郎」の解説

関根金次郎 せきね-きんじろう

1868-1946 明治-昭和時代前期の将棋棋士。
慶応4年4月1日生まれ。11世名人伊藤宗印に入門。明治38年8段。坂田三吉らと対局,大正10年13世名人となる。昭和10年江戸時代以来の終生名人制を廃止してみずから引退,実力名人制を発足させた。弟子に木村義雄ら。昭和21年3月12日死去。79歳。下総(しもうさ)関宿(千葉県)出身。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「関根金次郎」の意味・わかりやすい解説

関根金次郎
せきねきんじろう

[生]明治1(1868).千葉
[没]1946
将棋棋士。 13世名人。 1905年8段に昇段,21年名人に就位。 35年に終世名人制をみずから廃し,実力名人制を創設。また,多くの門弟を育て,「近代将棋の父」といわれる。関西の坂田三吉との名勝負はよく知られる。

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367日誕生日大事典 「関根金次郎」の解説

関根 金次郎 (せきね きんじろう)

生年月日:1868年4月1日
明治時代-昭和時代の将棋棋士
1946年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の関根金次郎の言及

【将棋】より

…小野の名人就位は家元制度の廃止であったが,直ちに他の将棋師や愛棋家から異議を申したてられたように,明治後半期の将棋界の混迷と不統一を端的に示している。1905年当時最強の将棋師といわれた関根金次郎が12代大橋宗金の免許で八段になり,免状発行権利の委譲をうけた。08年国民新聞と万朝報(よろずちようほう)が将棋欄を設けたので将棋への関心は高まったが,翌09年棋譜掲載の独占をねらって万朝報が〈将棋同盟会〉をつくると,国民新聞も対抗して井上義雄八段らによる〈将棋同志会〉を結成した。…

※「関根金次郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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