日本大百科全書(ニッポニカ) 「堀景山」の意味・わかりやすい解説
堀景山
ほりけいざん
(1688―1757)
江戸中期の医師、儒学者。堀杏庵(きょうあん)の曽孫(そうそん)。堀玄達(げんたつ)の子。京都に生まれる。名は正超、字(あざな)は彦昭、君燕(くんえん)、号は景山。父に医学を学び、また儒学もよくした。1719年(享保4)広島藩主浅野吉長(あさのよしなが)(1681―1752)の側儒となり200石を受け、京都と広島の間を往復した。景山は医に長じていたため、医の修業に京都へ出てきた本居宣長(もとおりのりなが)を1752年(宝暦2)に住居させ、景山が私淑(ししゅく)した契沖(けいちゅう)の『万葉代匠記』や荻生徂徠(おぎゅうそらい)の古文辞(こぶんじ)を教示し、宣長を国学に転向せしめる契機となった。宝暦(ほうれき)7年没。70歳。
[今中寛司 2016年7月19日]