塚崎村(読み)つかさきむら

日本歴史地名大系 「塚崎村」の解説

塚崎村
つかさきむら

[現在地名]沼南町塚崎つかざき大津おおつおか

高柳たかやなぎ村の北、大津おおつ川中流右岸に位置し、北は大井おおい村、大津川を挟んで対岸は藤心ふじごころ(現柏市)。「本土寺過去帳」(中・二〇日条)には嘉吉三年(一四四三)三月の年紀がある妙珠尼に「ツカサキ」と注記がある。慶安(一六四八―五二)頃の成立とされる高城胤忠旧知行高付帳には「塚ケ崎村高三百石」とある。近世初期は幕府領であったと思われ、元禄一一年(一六九八)本多正永領となる(本多四公日記)。以後領主の変遷は高柳村に同じ。


塚崎村
つかざきむら

[現在地名]境町塚崎

利根川北岸に所在。北は台地高野こうや(現総和町)に続き、東は長井戸ながいど(現在は水田)、南から西は利根川の流作場。塚先村とも記した。村域には原始時代の遺跡が多く、西部の南坪みなみつぼ遺跡(法花塚遺跡)は昭和五一年(一九七六)より本格調査が行われ、縄文時代の竪穴住居跡三ヵ所が確認され、縄文前期黒浜式の繊維土器片多数、石斧・石皿・円形土製品などが出土。近くには塚崎貝塚がある。元内もとうち貝塚は香取神社周辺の長井戸沼縁にあり、縄文土器片・石斧・石鏃が出土。塚崎古墳群は利根川と長井戸沼に挟まれた台地に散在し、口明山こうめいやま古墳石室をもち、人骨・直刀などが出土したが耕地整理により消滅。


塚崎村
つかざきむら

[現在地名]金沢市塚崎町

吉原よしわら村の東に位置、南は月浦つきうら村。束前・束崎とも記した。当地近辺にはかつて京都東寺領の保があったらしく、正安四年(一三〇二)一〇月「束前保」雑掌阿印が同保南北地頭沼田真家とその弟を、所務を押妨し年貢を数十年間抑留したとして六波羅探題に再度訴えている(「束前雑掌重解案」東寺百合文書)。六波羅探題は同年九月一九日以降、たびたび「束前南北地頭中」に召文を出したが、沼田らが応じなかったので、一一月二八日守護代に命じて参決を促した(「六波羅御教書案」同文書)


塚崎村
つかさきむら

[現在地名]坂戸市塚崎

戸口とぐち村の南にあり、北部をくず川が流れる。古くは天神原とよばれる原野で、天正(一五七三―九二)中里なかざと村の加藤豊前により開墾された。原野の中には古塚(古墳時代後期のお寺山古墳)があり、当村はその先に位置することから塚先・塚前と称されたのが塚崎の村名由来という。入間いるま入西につさい領に属した(風土記稿)。田園簿では高三二九石余のうち一九石余が永川流、田二七〇石余・畑三八石余。旗本遠山領(二七二石余)と同竹島領(三六石余)。国立史料館本元禄郷帳では旗本丸毛領。


塚崎村
つかざきむら

[現在地名]小山市塚崎

武井たけい村の北西に位置し、東は田間たま村。天文五年(一五三六)と推定される一一月二七日の小山高朝伊勢役銭算用状写(佐八文書)に下郷分として「西つかさき」「東つかさき」とみえ、西塚崎三〇〇文・東塚崎一貫九〇〇文の伊勢役銭を負担している。同二三年一二月二四日の足利義氏充行状(野田家文書)に小山領一一郷のうち塚崎とあり、野田左衛門大夫に宛行われている。慶安郷帳に村名がみえ、田方八五石余・畑方二〇石余。寛永一〇年(一六三三)下総古河藩領、延宝三年(一六七五)幕府領、天和二年(一六八二)再び古河藩領、貞享二年(一六八五)幕府領、元禄九年(一六九六)旗本久志本領となる。


塚崎村
つかさきむら

[現在地名]庄和町塚崎

西親野井にしおやのい村の南西にあり、東は西宝珠花にしほうしゆばな村。元禄郷帳に村名がみえ、高一五四石余。幕府領として幕末に至ったとみられる。「郡村誌」によると戸数一八・人口九八、馬四、物産は桃一千三〇〇箱、神社は香取社、寺は永福えいふく寺。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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