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境部摩理勢 さかいべの まりせ

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

境部摩理勢 さかいべの-まりせ

?-628 飛鳥(あすか)時代の官吏。
蘇我馬子(そがの-うまこ)の弟。蘇我蝦夷(えみし)の叔父。推古天皇20年蘇我堅塩媛(きたしひめ)改葬のとき,一族を代表して氏(うじ)と姓(かばね)の由来について誄(しのびごと)をのべた。推古天皇の後継者選びでは,山背大兄(やましろのおおえの)王を推し,田村(たむらの)皇子(舒明(じょめい)天皇)を推す蝦夷らと対立し,推古天皇36年殺された。

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朝日日本歴史人物事典の解説

境部摩理勢

没年:推古36(628)
生年:生年不詳
7世紀前半の蘇我系有力豪族。毛津,阿椰の父。蘇我蝦夷の叔父。稲目の子で馬子の弟か。蘇我境部臣とも書く。推古8(600)年,任那派遣の大将軍に任命された。同20年,推古天皇の生母蘇我堅塩媛(稲目の娘)を欽明天皇陵に改葬する際,馬子が多くの支族を率いて一族を代表したのに対して,摩理勢は「氏姓の本」を誄したといい,蘇我一族では馬子に次ぐ地位にあった。同36年,天皇が後継者を定めずに没すると,蘇我蝦夷は群臣を集めて協議したが,摩理勢は山背大兄王(聖徳太子の子)を推し,田村皇子(のちの舒明天皇)を推す蝦夷と対立した。一族が馬子の墓を造営する際にも,墓所の廬を壊してひとり引き上げ,斑鳩の泊瀬王(泊瀬仲王)の王宮に居住したが,王の急死により家に帰ったところを蝦夷の軍勢に滅ぼされた。こうした行動は大王から与えられる大臣の職位が族長位の継承に連動していることから,直系継承をめざす開明的な本宗家と旧来の世代内継承をめざす摩理勢という,蘇我氏内部の族長権争いと考えることもできる。

(仁藤敦史)

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世界大百科事典 第2版の解説

さかいべのまりせ【境部摩理勢】

?‐628(推古36)
飛鳥時代の廷臣。蘇我境部摩理勢とも称し蘇我馬子の弟,毛人(蝦夷)(えみし)の叔父。612年(推古20)欽明天皇の大后であった蘇我氏出身の堅塩媛(きたしひめ)を改葬した際,蘇我一族を代表して氏姓の本を述べた。推古女帝の死後,次の天皇に聖徳太子の子の山背大兄王を推し,田村皇子(舒明天皇)を推す蘇我毛人(蝦夷)らと対立し,嶋大臣(馬子)の造墓所からも退いた。そのため,毛人の軍勢にその子とともに攻め殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

境部摩理勢
さかいべのまりせ
(?―628)

飛鳥(あすか)時代の高官。蘇我臣馬子(そがのおみうまこ)の弟、毛人(えみし)(蝦夷)の叔父。612年(推古天皇20)欽明(きんめい)天皇大后堅塩媛(きたしひめ)の改葬にあたり、蘇我一族を代表し、氏姓の由来を誄(しのびごと)した。推古(すいこ)女帝の没後、次の天皇に山背大兄(やましろのおおえ)皇子を推し、田村(たむら)皇子(舒明(じょめい)天皇)を推す毛人らと対立し、嶋大臣(しまのおおおみ)(馬子)の造墓所からも退いた。ために毛人の説得を受けたが拒否したので、子の阿椰(あや)とともに殺され、長子の毛津(けつ)も自殺した。[門脇二]

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