デジタル大辞泉
「山背大兄王」の意味・読み・例文・類語
やましろのおおえ‐の‐おう〔やましろのおほえ‐ワウ〕【山背大兄王】
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やましろのおおえ‐の‐おうやましろのおほえ‥ワウ【山背大兄王】
- 聖徳太子の王子。母は蘇我馬子の娘刀自古郎女。推古天皇の死後、蘇我蝦夷(そがのえみし)の推す田村皇子と皇位を争って敗れたが、なお人望があったため、蘇我入鹿に襲われ、生駒山に逃げたが、斑鳩寺に帰って妻子とともに自殺した。皇極二年没。
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山背大兄王
没年:皇極2.11(643)
生年:生年不詳
7世紀前半の王族。聖徳太子(厩戸皇子)の子。山代大兄王,山尻王,尻大王,山代兄王,上宮王とも書く。母は蘇我馬子の娘刀自古郎女。妻は異母妹の舂米女王(上宮大娘姫王)。財王,日置王,片岡女王の兄。岡本宮(のちの法起寺)で生まれ,父の死後は斑鳩宮(奈良県斑鳩町)に居住したと推定される。推古36(628)年,推古天皇の死後,押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の皇子)の子田村皇子(のちの舒明天皇)と次期大王位を争った。叔父の蘇我蝦夷は天皇の遺言に従って田村皇子を,境部摩理勢は山背大兄王をそれぞれ推し,群臣らの意見も二分した。王は天皇の遺言によって,田村皇子には王位継承の理由がないことを蝦夷にたびたび主張したが認められなかった。摩理勢は甥の蝦夷の態度に怒り,斑鳩に赴き,泊瀬王(泊瀬仲王)の宮に居住した。蝦夷が王に摩理勢を差し出すように求めたので,王は摩理勢を諭し,さらに泊瀬王が病により急死し,行く所を失った摩理勢は,蝦夷の軍勢に攻め殺された。結局,舒明1(629)年1月,蝦夷と群臣の推戴により田村皇子が即位した。以後も有力な王族として発言権を有し,『旧唐書』倭国伝によれば,舒明5年に来日した唐使高表仁は「王子」と「礼」を争ったとあり,山背大兄王がこの「王子」であるとも考えられる。皇極2(643)年,蝦夷の子入鹿は上宮王らを廃して,舒明天皇の子である古人大兄を立てようと謀り,王らを斑鳩に襲った。王の奴三成や数十の舎人らは蝦夷の派遣した巨勢徳太や土師娑婆連らの軍勢と戦い,王は馬の骨を寝殿に投げ置き,妃や子弟らと共に生駒山へ逃れた。そのとき三輪文屋君は王に深草屯倉(京都市伏見区)から馬で東国に至り,王の私有民(上宮の乳部)を中心に軍勢をおこせば戦いに勝てると進言した。しかし王は万民の煩労を望まず,一族は王に従って斑鳩寺に戻り自殺した。墓所は,『延喜式』によれば「平群郡北岡墓」とする。「法起寺塔露盤銘」には,聖徳太子が死に臨んで「山代兄王」に勅し,岡本宮を寺とし,大倭国と近江国の田を施入させたとある。近年,法隆寺の釈迦三尊像の台座部材に「尻官」の文字が発見され,山背大兄王に関係する組織との見方もある。
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山背大兄王 (やましろのおおえのおう)
生没年:?-643(皇極2)
聖徳太子の長子で,母は蘇我馬子の女刀自古郎女(とじこのいらつめ)。異母妹舂米(つきしね)女王と結婚し,難波麻呂古王,麻呂古王,弓削王,佐々女王,三嶋女王,甲可王,尾治(おわり)王をもうけた。628年(推古36)の推古天皇の没後,田村皇子(のちの舒明天皇)と皇位を競い,多くの重臣が後者を支持したため,王を支持した馬子の弟境部摩理勢(さかいべのまりせ)は甥の蝦夷(えみし)に殺され,王は皇位をゆずった。これより先に王は父の没後,法起寺の建立にあたったと伝えられる。643年蘇我入鹿は王を廃して,舒明の長子古人大兄皇子を天皇にしようとし,11月兵を送って斑鳩(いかるが)宮(法隆寺東院にあった)をおそわせた。王は敗れて生駒山にかくれ,焼けた宮から発見されたいつわりの王の骨をみて,兵はいったんひきあげた。王の家臣は東国にいって戦うことをすすめたが,王は賛成せず斑鳩寺(法隆寺西院にあった)に入って自殺した。王殺害には軽王(かるのおおきみ)(のちの孝徳天皇)も参加したという伝えがある。
→大兄(おおえ)
執筆者:原島 礼二
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山背大兄王(やましろのおおえのおう)
やましろのおおえのおう
(?―643)
厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)の子。母は蘇我馬子(そがのうまこ)の娘、刀自古郎女(とじこのいらつめ)。推古(すいこ)女帝死後の皇位継承の有力資格者の一人であったが、蘇我蝦夷(えみし)が田村皇子(舒明(じょめい)天皇)を推したため対立することになる。蘇我一族の境部摩理勢(さかいべのまりせ)の援助があったものの、摩理勢が討たれ孤立する。その後、舒明天皇と馬子の娘、法提(ほて)郎女との間に生まれた古人(ふるひと)皇子を皇極天皇の後にたてようと謀った蘇我入鹿(いるか)によって、643年(皇極天皇2)に襲われ、一時生駒(いこま)山に逃れたが、斑鳩(いかるが)寺にこもり、妻子とともに自殺した。自殺に至る経緯は『日本書紀』編者の潤飾が目だち、単純に信用しがたい。聖徳太子の遺子を賛仰することで、その遺子を殺した入鹿ならびに蘇我本宗家の滅亡を必然的なものとする編者の意図から出たものと考えられよう。
[荒木敏夫]
『門脇禎二著『大化改新』(1969・徳間書店)』
山背大兄王(やましろおおえのおう)
やましろおおえのおう
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山背大兄王
やましろのおおえのおう
[生]?
[没]皇極2(643).11.1. 大和,斑鳩
飛鳥時代の皇族。聖徳太子の子。母は蘇我馬子の娘刀自古郎女。推古天皇没後,皇位継承問題が起り,蘇我倉麻呂や境部摩理勢らに擁立されて,蘇我蝦夷の推す田村皇子 (舒明天皇) と争ったが敗れた。舒明天皇の没後はその皇后の皇極天皇が即位したが,その後,世間の人望が山背大兄王に集ったため,馬子の娘法提郎女 (ほていのいらつめ) の生んだ舒明天皇の子古人王を立てて外戚の威をふるおうとする蝦夷の子入鹿に皇極2 (643) 年斑鳩宮を襲われた。一時生駒山に逃れ再挙をはかろうとしたが,三輪文屋のほか王の側に立つ者も少く,「一身のために百姓万民を労するに忍びず」として斑鳩寺に戻り,妻子一族自殺した。
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山背大兄王 やましろのおおえのおう
?-643 飛鳥(あすか)時代,聖徳太子の第1王子。
母は蘇我馬子の娘,刀自古郎女(とじこのいらつめ)。推古天皇の死後,田村皇子(のちの舒明(じょめい)天皇)と皇位をあらそい,敗れる。皇極天皇2年11月,古人大兄(ふるひとのおおえの)皇子を皇極天皇の後継にたてようとした蘇我入鹿(いるか)らの兵にかこまれ,生駒(いこま)山にのがれたのち,斑鳩(いかるが)寺で自殺した。名は山代大兄王ともかき,山尻王,上宮(じょうぐう)王ともいう。
【格言など】是(ここ)を以て,吾が一身(ひとつみ)をば,入鹿(いるか)に賜う(「日本書紀」)
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山背大兄王
やましろのおおえのおう
?~643.11.-
山尻王・上宮王・尻大王とも。聖徳太子の長子。母は蘇我馬子(うまこ)の女刀自古郎女(とじこのいらつめ)。有力な皇位継承候補者であったが,推古天皇は遺詔で田村皇子(舒明(じょめい)天皇)とともに自重を要請。天皇の死後,田村を推す蘇我蝦夷(えみし)と王を推す境部摩理勢(さかいべのまりせ)とがきびしく対立,摩理勢は攻め殺された。のち643年(皇極2)蘇我入鹿(いるか)らの軍に斑鳩(いかるが)宮を襲われ,妻子とともに自害した。
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山背大兄王
やましろのおおえのおう
?〜643
7世紀前期の皇族
聖徳太子(厩戸皇子)の子。人望があり大王位の最有力者であったが,蘇我蝦夷 (えみし) ・入鹿 (いるか) により,推古天皇および舒明天皇没後の2度にわたり即位を妨げられた。643年古人大兄皇子 (ふるひとのおおえのおうじ) を推す入鹿に攻められ斑鳩 (いかるが) 宮で妻子とともに自害した。
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