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聖徳太子の長子で,母は蘇我馬子の女刀自古郎女(とじこのいらつめ)。異母妹舂米(つきしね)女王と結婚し,難波麻呂古王,麻呂古王,弓削王,佐々女王,三嶋女王,甲可王,尾治(おわり)王をもうけた。628年(推古36)の推古天皇の没後,田村皇子(のちの舒明天皇)と皇位を競い,多くの重臣が後者を支持したため,王を支持した馬子の弟境部摩理勢(さかいべのまりせ)は甥の蝦夷(えみし)に殺され,王は皇位をゆずった。これより先に王は父の没後,法起寺の建立にあたったと伝えられる。643年蘇我入鹿は王を廃して,舒明の長子古人大兄皇子を天皇にしようとし,11月兵を送って斑鳩(いかるが)宮(法隆寺東院にあった)をおそわせた。王は敗れて生駒山にかくれ,焼けた宮から発見されたいつわりの王の骨をみて,兵はいったんひきあげた。王の家臣は東国にいって戦うことをすすめたが,王は賛成せず斑鳩寺(法隆寺西院にあった)に入って自殺した。王殺害には軽王(かるのおおきみ)(のちの孝徳天皇)も参加したという伝えがある。
→大兄(おおえ)
執筆者:原島 礼二
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厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)の子。母は蘇我馬子(そがのうまこ)の娘、刀自古郎女(とじこのいらつめ)。推古(すいこ)女帝死後の皇位継承の有力資格者の一人であったが、蘇我蝦夷(えみし)が田村皇子(舒明(じょめい)天皇)を推したため対立することになる。蘇我一族の境部摩理勢(さかいべのまりせ)の援助があったものの、摩理勢が討たれ孤立する。その後、舒明天皇と馬子の娘、法提(ほて)郎女との間に生まれた古人(ふるひと)皇子を皇極天皇の後にたてようと謀った蘇我入鹿(いるか)によって、643年(皇極天皇2)に襲われ、一時生駒(いこま)山に逃れたが、斑鳩(いかるが)寺にこもり、妻子とともに自殺した。自殺に至る経緯は『日本書紀』編者の潤飾が目だち、単純に信用しがたい。聖徳太子の遺子を賛仰することで、その遺子を殺した入鹿ならびに蘇我本宗家の滅亡を必然的なものとする編者の意図から出たものと考えられよう。
[荒木敏夫]
『門脇禎二著『大化改新』(1969・徳間書店)』
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?~643.11.-
山尻王・上宮王・尻大王とも。聖徳太子の長子。母は蘇我馬子(うまこ)の女刀自古郎女(とじこのいらつめ)。有力な皇位継承候補者であったが,推古天皇は遺詔で田村皇子(舒明(じょめい)天皇)とともに自重を要請。天皇の死後,田村を推す蘇我蝦夷(えみし)と王を推す境部摩理勢(さかいべのまりせ)とがきびしく対立,摩理勢は攻め殺された。のち643年(皇極2)蘇我入鹿(いるか)らの軍に斑鳩(いかるが)宮を襲われ,妻子とともに自害した。
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