平安前期の歌人。生没年不詳。三十六歌仙の一人。貫之の従兄弟。897年(寛平9)に土佐掾(とさのじよう)に任ぜられたころには40歳を過ぎていたらしい。父の有朋(ありとも)が惟喬(これたか)親王の周辺で和歌を詠んでいたので,友則もその感化を受けて早くから作歌をしたと思われる。893年ころの宇多天皇周辺の歌合に出詠し,その後,醍醐天皇の命を受け《古今和歌集》の撰者の一人となったが,編集を最後まで果たさず,907年(延喜7)ころに死去した。和歌は《古今集》以下の歴代の勅撰集に65首,家集に《友則集》がある。《古今集》の序に名前を連ねた4人中の筆頭撰者として,その編集事業の中心にあったかもしれないが,詳細は不明である。彼の和歌には《万葉集》や中国古典に学んだところも見られるが,無技巧でつつましやかな調べのうちに上品な悲哀感がにじみ出ている。〈夕されば佐保(さほ)の川原の川ぎりに友まどはせる千鳥鳴くなり〉(《拾遺集》巻四)。
執筆者:小沢 正夫
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平安前期の歌人。『古今和歌集』撰者(せんじゃ)。三十六歌仙の一人。有友の子。897年(寛平9)土佐掾(とさのじょう)、翌年少内記、904年(延喜4)大内記。『古今集』撰集途次に没した。集中第3位の46首入集(にっしゅう)。早く892年の「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」、「寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおおんとききさいのみやのうたあわせ)」にかなりの歌を残し、『新撰万葉集』を通じて、『古今集』直前の時期の、もっとも有力な歌人であった。機知的なうちにもしみじみとした叙情を示す穏和典雅な歌風で、古今風を直接に導いた歌人として評価される。『古今集』筆頭撰者貫之(つらゆき)は、友則の従弟(いとこ)にあたる。
ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ
[菊地靖彦]
(田中登)
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生没年不詳。平安前期の歌人。三十六歌仙の1人。有友の子。紀貫之(つらゆき)の従兄弟。「後撰集」の藤原時平との贈答歌によれば,40歳まで無官であった。貫之らより一世代上の歌人。歌合(うたあわせ)で活躍し,貫之・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)とともに「古今集」の撰者となった。ただし「古今集」中に貫之と忠岑の友則追悼歌があり,撰集途中あるいは直後に没したか。「古今集」には貫之・躬恒につぐ46首がのる。勅撰集入集は65首。家集「友則集」。
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…完成奏覧は913年(延喜13)から914年の間である。撰者は紀友則,紀貫之,凡河内躬恒(おおしこうちのみつね),壬生忠岑(みぶのただみね)の4人で,友則は途中で没し編纂の主導権は貫之がとった。撰者の主張は序文に示され,〈やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける〉と仮名序の冒頭にいうように,創作主体としての人間の心を基本に据えるものである。…
※「紀友則」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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