海外から輸入された木材・木製品の総称。外材は日本特有の用語であり、国際的には輸入木材とよばれる。第二次世界大戦前までは、日本は国内を内地、国外を外地とよんできたが、その呼び名が輸入木材につけられたものである。
日本の外材輸入の歴史は、1914年(大正3)の第一次世界大戦の景気高揚を背景に始まる。合板工業は、1907年(明治40)に生まれ、第一次世界大戦の合板需要の急増に対処するために原木の入手を東南アジア諸国の南洋材(ラワン)に求めた。紙・パルプ産業は、針葉樹林が広く存在する樺太(からふと)に進出し現地生産を開始する一方、ロシア沿海州などからパルプ原木の輸入も行った。製材業界は、製材用の針葉樹林が広大な規模で存在するアメリカを対象に、大正期から昭和初期にかけて製材用丸太の輸入を行った。このアメリカからの木材輸入は15年あまりにわたって行われたが、中国・満州事変などで日本に対する国際社会の監視が厳しくなる1930年代中ごろに中断された。その代替として製材業界は、外材原木の入手を東南アジアの南洋材に切り替える措置をとった。この南洋材と北洋材(ロシア)を中心とする外材輸入は、第二次世界大戦後の1950年代まで継続された。
第二次世界大戦後の本格的な外材輸入は、高度経済成長下で発現した木材価格の高騰対策として閣議決定された1961年(昭和36)の「木材価格安定緊急対策」によってである。「木材価格安定緊急対策」は、卸売物価を超える勢いで高騰を続ける木材価格対策として、木材、パルプの自由化を提示したものであった。閣議決定をもとに政府は、針葉樹丸太の関税撤廃をはじめ北アメリカ産のベイツガ、ベイマツ製材品ならびにパルプ用チップ材の関税撤廃を行った。同時に、それまで外材輸入を担ってきた製材業兼営の大手木材問屋に替えて、外貨割り当ての優遇を受けていた旧財閥系の大手総合商社などに働きかけて外材輸入への参画を求めた。また、政府は、地方自治体にも働きかけ、大規模な外材輸入を行うための木材専用埠頭(ふとう)の整備、新設などの港湾整備事業を開始した。この1961年の「木材価格緊急安定対策」の閣議決定で開始された木材、パルプの自由化措置は、1964年の「林業基本法」によって法制化される。そこでは、「外材輸入の適正円滑化で木材需給・価格の安定を図る」ことを政策指針に位置づけたのである。
他方、政府から外材輸入への参画を受けた大手総合商社は、外材輸入を行うにあたって、アメリカ西海岸に本社を置くアメリカ巨大木材企業と個々に提携し、輸入木材の安定確保を図る方策をとった。これによって北アメリカ大陸からの針葉樹材の輸入が本格的に開始され、それまでの南洋材、北洋材中心の輸入から米材主体の輸入のものに転換することになった。また、北洋材や南洋材も大手総合商社が主体となって輸入を行ったが、南洋材の輸入においては米材の輸入方式とは対照的に大手総合商社が産地国へ直接投資を行って輸入を拡大する、いわゆる開発輸入と称される方式がとられた。大手総合商社は、産地国の代理店や有力シッパー(輸出業者)を系列化し、大規模な資本投資を行って輸入の拡大を図る、プランテーション的な開発方式をとったのである。そのため、他の外材に比べて相対的に安価での南洋材の輸入が行われ、国産材との競争において外材価格を相対的に押し下げる機能を果たした。
こうした方式で開始された外材輸入は、大手総合商社の資本力とも相まって輸入量が急速に増大し、木材供給に占める外材のシェアを高めた。木材の自由化を「閣議決定」した1961年当時の外材シェアは2割弱にすぎなかったが、8年後の1969年にはそのシェアが5割を超えて国産材の供給シェアを上回るまでになる。それ以降も外材の供給シェアは年々高まり、1970年代中ごろにはそのシェアが6割台に、さらに1980年前後には7割台にまで急上昇した。
また、丸太輸入を中心に行われてきた外材輸入も、1990年代以降、製材・加工品輸入に大きく移行する。外材輸入のピーク時の1970年の輸入形態は、丸太形態の輸入が77%、製品形態の輸入が23%と、木材輸入の8割近くが丸太形態での輸入であった(『林業白書』1972年度版)。それに対し、『森林・林業白書』(2013年度版)によると、2012年(平成24)の外材輸入は、丸太形態での輸入が1割、製品形態での輸入が9割を占めるまでになっているとされる。
この外材を丸太輸入から製品輸入に大きくシフトさせる要因となったのは、日米経済摩擦の緩和を指針に1980年代後半から1990年代前半にかけて行われた日米林産物協議であった。1986年から開催された日米林産物協議は、数回に及ぶ「合意」を繰り返しながら1994年(平成6)に最終「合意」が行われた。それ以降も関税引下げ協議が1999年まで続けられ、製材品、針葉樹合板などを中心に全木製品の関税が平均で51%も引き下げられることが「合意」された。その結果、日本の林産物の実効関税率は1.7%と、主要国のなかではカナダとともに関税率のもっとも低い国となった。また、一連の日米「合意」においては、北アメリカ産住宅工法のツーバイフォー工法住宅の輸入促進も「合意」され、建築基準法ならびにJAS(ジャス)(日本農林規格)などの非関税障壁の改正も行われた。その結果、高次加工製品のツーバイフォー工法住宅の部材輸入が本格的に行われることになった。丸太(原材料)輸入から加工製品の輸入、さらには高次加工製品(完製品)への輸入の展開は、製材部門だけでなく、木材の最終消費分野の住宅市場の外材化を直接的に進展させるものであり、国産材にさらなるダメージを与えずにおかないものである。
2012年(平成24)時点の外材の材種別輸入状況は次のとおりである。年間の輸入量(丸太・製品)は5079万立方メートル、木材総供給量に占める外材供給シェアは72%。材種別の内訳は、米材26%、南洋材12%、欧州材11%、北洋材4%、その他材47%。国別の内訳は、オーストラリア材10%、チリ材10%、ニュージーランド材5%、中国材5%、アフリカ材等17%となっている(『森林・林業白書』2013年度版)。
[山岸清隆]
『全国森林組合連合会森林組合制度史編纂委員会編『森林組合制度史』全4巻(1973・全国森林組合連合会)』▽『安藤嘉友著『外材・その現状と展望』(1974・日本林業調査会)』▽『上村武著『木材の実際知識』第3版(1988・東洋経済新報社)』▽『山岸清隆著『森林環境の経済学』(2001・新日本出版社)』▽『林野庁編『森林・林業白書』各年版(農林統計協会)』
日本に輸入されている木材のことで,国産材と対比するときに外材あるいは輸入材などと呼んでいる。その量は,現在木材供給量全体の70%を超えている。したがって,日本の木材工業さらにわれわれの日常生活,とくに住生活は外材ぬきで語ることはできないといえる。古くから日本に輸入され,しかも現存しているものは,南洋材の中の唐木(からき)類(唐木細工)で,貴重材であるため,工芸品(正倉院の御物は好例)とされ珍重されているが,その量は少ない。近隣の地域である東南アジア,北米,ロシアなどからまとまった量の木材が日本へ輸入されるようになってきたのは1890年代に入ってからである。現在輸入されている外材を分類すると,南洋材,米材(北米材),ロシア材(北洋材),熱帯アメリカ材,アフリカ材,その他(ニュージーランド材を含む)に分けることができる。そのうち量・使われ方などでわれわれの日常生活に大きく結びついているのは前3者である。その構成樹種はそれぞれの輸出国の在来の樹種が大部分であるが,元来アメリカの樹種であるラジアタパインがニュージーランドで造林され日本へ輸出されたり,元来日本のものであるキリが北米や南米に植えられ日本へ輸出されるようなこともある。
→木材工業 →木材市場 →木材貿易
南洋という言葉を木材と結びつけて使う場合,もともと厳密に学問的な定義がされているわけでもなく,また年代によってあるいは使われ方によって少しずつ違っているが,一般的にはアジアの熱帯地域の国々に産する木材と考えられている。したがってこれを国の範囲で考えれば,西はインド,東はインドネシアを境として,その間に含まれる地域産の木材と考えてよい。この考え方にしたがえば,ニューギニア,ソロモン諸島などに産するものは含まれない。しかし最近,市場ではこれらを南洋材として扱っていることが多くなり,また貿易統計なども同じ扱いをしている。ときに,南方材という言葉がたぶん南洋材あるいは熱帯材を示すものとして用いられるが,これはさらにあいまいな言葉である。南洋材が世界の他の熱帯地域からの木材と非常に異なっている点は,アジアの熱帯地域には数百種のフタバガキ科の樹種があり,しかもそれらが森林での優勢木となっていることである。その内でもラワン・メランチ類は,幹がまっすぐ(通直),大径で,材質が均質,しかも大量に得られるため,日本の木材工業の原料として非常に重要なものとなった。南洋材の中に含まれるラワン・メランチ類の比率は現在でも高い。したがってラワンという名は南洋材の代名詞のようになってしまっている。南洋材(唐木類を除く)が,微々たるものではあるが日本に輸入されるようになったのは1890年代で,その後,日清・日露両戦争が終わり,造船ブームがおき,船の甲板に用いるためにチークが輸入されるようになってからである。ちなみに1912年のその輸入量は8000m3弱であった。この造船用のチークの代用としてラワン類が使われるようになった。本格的に輸入されるようになったのは大正時代に入ってからで,それ以後昭和時代に入ってから輸入量が着実に増加し,1937年には73万6000m3で戦前の最高となり,その後第2次世界大戦によって輸入が中断された。48年の輸入再開時での輸入量は6000m3であったが,輸入量は着実に増加し,今日に至っている。
南洋材と呼ばれる木材の中には百数十属からの樹種が含まれ,その樹種の数は1000を超えると考えてよい。しかし,材積で考えるとその大半は依然としてフタバガキ科の樹種,とくにラワン・メランチ類,アピトン・クルイン類,カプール(現地読みではカポール)類などで,これらは南洋材輸入量の約80%くらいと推定される。
カナダおよびアメリカから輸入され,針葉樹材が主で,若干量の広葉樹材を含んでいる。1890年代に入ってから輸入され,大正時代に入り輸入量は増加し,1924年には関東大震災の影響で280万m3に,さらに28年には350万m3に達した。その後は年々減少し続け,41年には第2次世界大戦のために中断されたが,戦後49年になりベイマツ1万4000m3の輸入により輸入が再開された。たぶん,現存する北米材の最も古いものの一つは,きわめてわずかな量であるが,ペリー提督が日本に開港を迫ったときに持ち込んだベイマツではないかと思われる。北米材といっても,現在は主として大陸の西海岸沿いの山地,カスケード山脈,さらにシエラ・ネバダ山脈などから産するものが中心であり,東部からのものはほとんどない。
かつて日本が南サハリンを領有していた第2次世界大戦終了までの時代には,サハリン産材とソ連材を含めて北洋材と呼んでいたが,現在ではむしろロシア材と呼ぶのが適当であろう。ロシアからは1889年ころからヤマナラシの丸太がマッチ軸木用として輸入されていたが,本格的な木材輸入は1920年ころからである。26年から28年ころには330万m3を超えるようになったが,その後徐々に減少して,第2次世界大戦で中断された。戦後,輸入が再開されたのは54年のことである。
執筆者:須藤 彰司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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