改訂新版 世界大百科事典 「大内裏図」の意味・わかりやすい解説
大内裏図 (だいだいりず)
平安宮のあらましを記した図面,京図,朝堂院図,内裏図などが一組になって九条家,二条家,陽明文庫などに伝わっており,大内裏図と称される。《拾芥抄》にも収められている。これらの絵図には精粗があって,陽明文庫,九条家のものが詳細である。4図とともに,〈内裏焼亡年々〉という平安宮の火災を記録した文書もついている。これらがセットとして伝えられるようになったのは,平安時代末期と考えられている。大内裏図は,平安宮内での内裏,朝堂院,豊楽院,各官司等の位置を詳しく記しているが,その内容は弘仁年間(810-824)以後の平安宮の姿を伝えている。初期の平安宮は,宮の北辺部分や門号などが大内裏図とは異なっていたといわれている。このような大内裏図が記され,貴族の家々に伝えられるようになったのは,平安中期以後,しばしば火災にあい,宮の全貌がわからなくなる恐れが生じたためであろう。大内裏図の考証としては,江戸時代に裏松光世(固禅)が,《大内裏図考証》32巻としてこれらの絵図,古記録をもとに復元考証したものがある。なお,大内裏はもと皇居としての内裏の美称であったが,のちに両者を区別し前者を宮城,後者を狭義の内裏として使用するようになったと考えられる。
→宮城
執筆者:鬼頭 清明
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