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大山捨松 おおやま すてまつ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大山捨松 おおやま-すてまつ

1860-1919 明治-大正時代の社会事業家。
安政7年1月23日生まれ。山川浩(ひろし)・山川健次郎の妹。明治4年津田梅子ら4人と,日本初の女子留学生として渡米。バッサー大などで看護学,女子教育などを研究。15年帰国し,大山巌(いわお)と結婚。愛国婦人会,赤十字社篤志看護婦会などで活躍した。大正8年2月18日死去。60歳。陸奥(むつ)会津(あいづ)(福島県)出身。幼名は咲子。

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百科事典マイペディアの解説

大山捨松【おおやますてまつ】

会津藩士山川尚江の娘として生まれる。明治・大正期の名流。はじめ咲子と名のる。1871年岩倉使節団津田梅子らとともに女子留学生として随従。アメリカでは女子教育を学び,また看護婦免状を得て,1882年に帰国。

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朝日日本歴史人物事典の解説

大山捨松

没年:大正8.2.18(1919)
生年:万延1.2.24(1860.3.16)
日本初の女子留学生。会津藩の家老山川尚江重固と唐衣の娘,幼名を咲子という。明治4(1871)年,岩倉遣外使節団と渡米。母の「帰る日まで捨てたつもりで待つ」という気持ちをこめて捨松と改名した。コネチカット州ニューヘブンのベーコン牧師の家庭で幸せな少女時代を過ごし,1882年ニューヨーク州の名門女子大学ヴァッサーカレッジを優秀な成績で卒業,学士号を取得,同年津田梅子と帰国。独身女性を軽視する日本社会の厚い壁に阻まれ女学校設立の夢を断念,明治16年陸軍卿大山巌と結婚,政府高官の妻として国費留学生の義務と責任を果たそうとの決意をかためる。日本で初めて慈善バザーを開き,収益金を看護婦養成所に寄付したり,伊藤博文の要請を受けて華族女学校設立の準備委員を務める。日露戦争時には募金活動や救援活動等を行った。33年に創立された女子英学塾(津田塾大学)顧問として終生塾の発展に尽くした。<参考文献>久野明子『鹿鳴館の貴婦人大山捨松』,大庭みな子『津田梅子』

(久野明子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

おおやますてまつ【大山捨松】

1860‐1919(万延1‐大正8)
近代日本の名流婦人。会津藩士山川尚江の娘として生まれ,幼年に会津落城を体験した。政府の女子留学生募集に応募,1871年(明治4)10月,津田梅子,吉益亮子,上田悌子,永井繁子とともに岩倉使節団に随従して横浜を出港した。はじめの名は咲子。母唐衣が出立にあたって〈捨てたつもりで待つ〉との意を込めて名を捨松と改めさせたという。アメリカでは女子教育について学び,バッサー大学を卒業,ニューヘブン病院で甲種看護婦の免状を得て,82年に帰国した。

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大辞林 第三版の解説

おおやますてまつ【大山捨松】

1860~1919) 社会奉仕家。会津の人。津田梅子らと米国に留学。のち大山巌の後妻。赤十字社篤志看護婦会・愛国婦人会で活躍した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大山捨松
おおやますてまつ
1860―1919

会津藩家老山川尚江(なおえ)の末娘で、幼名を咲子という。幼少時、会津戦争、陸奥斗南(となみ)(下北半島)への移住等の苦難にあい、一時、箱館(現函館市)のフランス人の家庭に預けられた。1871年(明治4)北海道開拓使派遣の官費女子留学生の一人として、津田梅子らと渡米、ニュー・ヘヴンのレナード・ベーコン牧師宅に寄宿し、在米中にクリスチャンとなる。教育は、地元の高校を卒業後、バッサー大学の正規課程を修め、さらに、コネティカットの看護婦養成学校で2ヶ月間研修を受けた。1882年、帰国し、翌年、参議陸軍卿(後に元帥陸軍大将議定官、公爵)大山巌(いわお)と結婚。鹿鳴館の花形の一人として活躍した。特に日本初の慈善バザーを主導し、その収益を有志共立東京病院に寄付したことはよく知られている。大山巌の3人の連れ子に加え、2男1女に恵まれたが、徳富蘆花(ろか)『不如帰(ほととぎす)』に登場する意地の悪い継母のモデルとされて、世間的に誤解を受けたこともある。日本赤十字社篤志看護婦人会理事、愛国婦人会理事等を務めたほか、津田梅子を助け、女子英学塾の理事として女子教育の向上に努めた。[小檜山ルイ]
『久野明子著『鹿鳴館の貴婦人大山捨松』(1988・中公文庫)』

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