大山捨松(読み)おおやますてまつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大山捨松」の意味・わかりやすい解説

大山捨松
おおやますてまつ
1860―1919

会津藩家老山川尚江(なおえ)の末娘で、幼名を咲子という。幼少時、会津戦争、陸奥斗南(となみ)(下北半島)への移住等の苦難にあい、一時、箱館(現函館市)のフランス人の家庭に預けられた。1871年(明治4)北海道開拓使派遣の官費女子留学生の一人として、津田梅子らと渡米、ニュー・ヘヴンのレナード・ベーコン牧師宅に寄宿し、在米中にクリスチャンとなる。教育は、地元の高校を卒業後、バッサー大学の正規課程を修め、さらに、コネティカットの看護婦養成学校で2ヶ月間研修を受けた。1882年、帰国し、翌年、参議陸軍卿(後に元帥陸軍大将議定官、公爵大山巌(いわお)と結婚鹿鳴館花形の一人として活躍した。特に日本初の慈善バザーを主導し、その収益を有志共立東京病院に寄付したことはよく知られている。大山巌の3人の連れ子に加え、2男1女に恵まれたが、徳富蘆花(ろか)『不如帰(ほととぎす)』に登場する意地の悪い継母のモデルとされて、世間的に誤解を受けたこともある。日本赤十字社篤志看護婦人会理事、愛国婦人会理事等を務めたほか、津田梅子を助け、女子英学塾の理事として女子教育の向上に努めた。

[小檜山ルイ]

『久野明子著『鹿鳴館の貴婦人大山捨松』(1988・中公文庫)』


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20世紀日本人名事典 「大山捨松」の解説

大山 捨松
オオヤマ ステマツ

明治・大正期の社会奉仕家 陸軍元帥大山巌の妻。



生年
安政7年2月24日(1860年)

没年
大正8(1919)年2月18日

出生地
陸奥国若松(福島県会津若松市)

旧姓(旧名)
山川 捨松(ヤマカワ ステマツ)

別名
幼名=咲子

学歴〔年〕
バッサーカレッジ〔明治15年〕卒

主な受賞名〔年〕
勲四等宝冠章

経歴
会津藩家老山川尚江を父に生まれる。明治4年岩倉遣外使節団に加わり、日本初の女子留学生として津田梅子らとともに渡米。この時“捨松”に改名ニューヘブンのヒルハウス高校、バッサーカレッジなどに学び、15年帰国。16年陸軍卿大山巌と結婚。17年華族女学校設立準備委員、21年には宮内省の依頼で洋化顧問係となる。32年津田梅子が女子英学塾(津田塾大学)を設立するに際して顧問となり、以後同塾の育成に力を注いだ。また日赤篤志看護婦会、愛国婦人会、日赤理事など多くの慈善・奉仕活動にも積極的に励んだ。鹿鳴館時代を象徴する存在であり、“鹿鳴館の花”と謳われた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「大山捨松」の意味・わかりやすい解説

大山捨松【おおやますてまつ】

会津藩士山川尚江の娘として生まれる。明治・大正期の名流。はじめ咲子と名のる。1871年岩倉使節団津田梅子らとともに女子留学生として随従。アメリカでは女子教育を学び,また看護婦免状を得て,1882年に帰国。翌年大山巌と結婚。1901年愛国婦人会の結成に参加。日露戦争では赤十字篤志看護婦会の運営に努めた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大山捨松」の解説

大山捨松 おおやま-すてまつ

1860-1919 明治-大正時代の社会事業家。
安政7年1月23日生まれ。山川浩(ひろし)・山川健次郎の妹。明治4年津田梅子ら4人と,日本初の女子留学生として渡米。バッサー大などで看護学,女子教育などを研究。15年帰国し,大山巌(いわお)と結婚。愛国婦人会,赤十字社篤志看護婦会などで活躍した。大正8年2月18日死去。60歳。陸奥(むつ)会津(あいづ)(福島県)出身。幼名は咲子。

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367日誕生日大事典 「大山捨松」の解説

大山 捨松 (おおやま すてまつ)

生年月日:1860年2月24日
明治時代;大正時代の社会奉仕家
1919年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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