山川浩(読み)やまかわひろし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山川浩」の意味・わかりやすい解説

山川浩
やまかわひろし
(1845―1898)

幕末会津藩士、のち軍人。重栄とも称し、字(あざな)は士亮(しりょう)。屠龍子、二去堂主人と号す。父の死後家老の祖父重英に育てられる。1862年(文久2)京都守護職となって上京した藩主松平容保(かたもり)に随従し、1866年(慶応2)樺太(からふと)国境議定の幕府使節団に加わってロシアに入った。戊辰(ぼしん)戦争では下野(しもつけ)各地を転戦後、防衛総督として会津城籠城(ろうじょう)戦を戦った。1869年(明治2)会津藩が陸奥(むつ)国斗南(となみ)に3万石を与えられ、斗南藩権大参事として開拓と家臣団統率にあたった。廃藩置県後、陸軍省に入り、陸軍少佐として佐賀の乱、西南戦争に参戦し、その後、高等師範学校校長、また貴族院議員に任じた。著書に『京都守護職始末』がある。

[井上勝生]

『山川浩著、遠山茂樹校注『京都守護職始末』全2巻(平凡社・東洋文庫)』

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「山川浩」の解説

山川 浩
ヤマカワ ヒロシ


肩書
貴院議員(勅選)

別名
号=屠竜子

生年月日
弘化2年11月6日(1845年)

出生地
陸奥国若松(福島県会津若松市)

経歴
会津藩士の家に生まれ、若くして父を失い、家督を相続。藩主松平容保の側近にあって、幕末の難局にあたる。慶応2年幕府樺太境界議定の派遣員に選ばれて露独仏3国を巡航し、攘夷の非を悟る。帰国後藩政改革を志したが、戊辰戦争で会津城は開城。幼君松平容大を守り、明治2年旧藩主松平家の再興が許されて陸奥斗南の地3万石が与えられると、斗南藩の権大参事に就任。藩士の移住・授産に尽力する。廃藩後上京、6年陸軍省に出仕し、10年西南戦争では西征別動軍参謀をつとめた。その後、名古屋鎮台参謀長、陸軍省人事局長などを経て、初代の高等師範学校校長、23年勅選貴族院議員、陸軍少将を歴任した。31年男爵。著書に「京都守護職始末」、歌集「さくら山集」など。

没年月日
明治31年2月4日

家族
弟=山川 健次郎(物理学者・東京帝大総長) 妹=大山 捨松(大山巌元帥夫人・社会奉仕家)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

朝日日本歴史人物事典 「山川浩」の解説

山川浩

没年:明治31.2.4(1898)
生年:弘化2.11.6(1845.12.4)
幕末明治期の政治家。会津藩(福島県)藩士山川尚江,艶子の次男。号は屠竜子,慶応2(1866)年日露国境画定交渉使小出秀実に随行してヨーロッパ経由露国に行く。帰国後会津藩物頭,若年寄。戊辰戦争に従軍。斗南藩(青森県)大参事。廃藩置県後上京,明治6(1873)年谷干城に知られ陸軍省に入り,熊本鎮台に属す。佐賀の乱(1874)に出動,また西南戦争(1877)に従軍。その後名古屋鎮台参謀長,陸軍省人事局長,総務局制規課長などを経て,東京高師校長,東京女高師校長を歴任。22年大隈条約改正反対運動では谷干城の日本倶楽部に参加した。23年貴族院勅選議員,同院内の懇話会系。31年男爵。<参考文献>桜井懋編『山川浩』

(酒田正敏)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山川浩」の解説

山川浩 やまかわ-ひろし

1845-1898 幕末-明治時代の武士,軍人。
弘化(こうか)2年11月6日生まれ。山川健次郎,大山捨松の兄。陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩士。会津開城後,陸奥斗南(となみ)藩(青森県)権(ごんの)大参事となる。廃藩後は陸軍省にはいり西南戦争に従軍。明治19年少将。高等師範の校長もつとめた。貴族院議員。明治31年2月4日死去。54歳。号は屠竜子。

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