大柿村
おおがきむら
[現在地名]古川市千手寺町一―二丁目・前田町・浦町・七日町・十日町・台町・東町・北町一―五丁目・駅前大通二―六丁目・中里一丁目・荒川小金町・川端・二ノ構・大宮一―二丁目・同四―五丁目・幸町一―二丁目・大柿
緒絶川の北にあたり、北は江合村、南は中里村と稲葉村、東は李埣村、西は古川村と接する。稲葉村との間に歌枕として知られる緒絶橋が架かる。古くは古川の名で総称され、寛永一七年(一六四〇)総検地以後分村。早くから開け、留沼遺跡の竪穴住居跡からたくさんの炭化籾が出た。村成立の古さを裏付ける伝承にも富み、鎧明神社と兜明神社は、「安永風土記」によれば大同二年(八〇七)坂上田村麻呂の創建と伝える。
大柿村
おおがきむら
[現在地名]平田村小松原
阿武隈高地の山間部、北須川の上流域に位置し、東は永田村、南は北向村、西と北は下蓬田村。中世城館が二ヵ所あった。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一七一石余。寛永四年(一六二七)以降白河藩領、その後の領主変遷は永田村と同じ。白河古領村郷高帳による高一七六石余。慶安三年(一六五〇)の検地帳(平田村史資料集)によると、田方一二二石余・畑方五四石余、堀之内・御くらやしき・こや・さくの内などの地名がみえる。文久三年(一八六三)の当村・永田村・北向村・中倉村および山小屋村(現玉川村)による助郷免除願書(平田村史)に「右村之儀者奥山之庄小松原新田と唱来リ」とあり、すでに小松原の地名が生じていたことが知られる。
大柿村
おおがきむら
[現在地名]都賀町大柿
深沢村とは南から東にかけて接し、東端を赤津川、村内を同川支流の逆川が流れる。例幣使街道金崎宿(現上都賀郡西方村)より足利方面に至る道が通る。縄文時代の早期・中期・後期にわたる遺跡が分布する。慶長一四年(一六〇九)までは皆川広照領(延享元年「皆川歴代記」皆川又太郎文書)、元和元年(一六一五)より榎本藩領とみられる。慶安郷帳では田六四一石余・畑八二二石余・野銭四二石余で旗本本多領、以後領主は変わらない。
大柿村
おおがきむら
[現在地名]三朝町大柿
赤松村の南、竹田川対岸(左岸)に位置する。津山往来が当村の山裾を通り、大柿ホウキ(歩危)を越え南へ延びる。南の助谷村はホウキを渡る桟道を流失のたびに修理してきたが、出費がかさみ当村へその地を譲渡したという。拝領高九五石余、本免六ツ五分。倉吉荒尾氏の給地(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば竈数九。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一一〇石余、竈数二一。天保七年(一八三六)当村伝左衛門は恩地村の者から糀株を譲り受けた(在方諸事控)。村内上上野の台地上に鉄滓が残り、穴鴨の安田家文書に元禄六年(一六九三)頃の鑪としてみえる「大柿の段」にあたると考えられている。
大柿村
おおがきむら
[現在地名]三木市細川町豊地
細川中村の東に位置し、村内で西流する小川川が南流してきた美嚢川に合流する。北は佐野村。慶長国絵図に村名がみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となる(「寛政重修諸家譜」など)。寛永九年(一六三二)上知され、正保郷帳では幕府領で、田方二二七石余・畑方三〇石余。元禄郷帳では高二四六石余。正徳二年(一七一二)下野壬生藩領となり幕末に至る(「寛政重修諸家譜」、享保二年「徳川吉宗領知朱印状」大島家文書、旧高旧領取調帳)。
大柿村
おかきむら
[現在地名]菊池市大平
平野村の南にあり、木庭村に東接する。菊池川が南を西流する。隈府町高札辻より約一里。天正一七年(一五八九)の検地帳に田六町九反九畝余・畠四町九反四畝余、分米一一七石六斗とある。近世は河原手永に属し、文化一一年(一八一四)頃の河原手永手鑑には高一一八石二斗余、田五町七反三畝・畑四町四反六畝余、竈数一六・人数九〇、牛馬四三、氏神天満宮とあり、小村として古閑を記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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