日本歴史地名大系 「小松原村」の解説
小松原村
こまつばらむら
江戸時代に
室町末期には漁業集落として成立していたらしく、寛永一九年(一六四二)のくて崎網場争論目安(松吉家文書)に、当村の者が天正年中(一五七三―九二)
小松原村
こまつばらむら
現熊毛町の南東部に位置し、南は
暦仁二年(一二三九)二月三日の東大寺油田進未注文(東大寺文書)に「周防小松原」とみえ、東大寺の灯油料田があった。
寛保年中(一七四一―四四)の小松原由来書に「往古予州河野殿御配地の由、其節は石高十六石前を以て御所務予州へ納方相成候」とある。河野家譜に対馬守通治が文和三年(一三五四)周防国守護に補せられたことがみえる。北朝方の大内長弘・弘長父子の跡をうけて河野通治が補せられたと思われる。寛永二年(一六二五)毛利氏の一門宍戸広匡が移封、領地は
小松原村
こまつばらむら
- 和歌山県:御坊市
- 小松原村
街道の要衝として、湯河氏の城館下にある町として早くから集落を形成していたにもかかわらず、慶長検地高目録には村名の記載がない。「続風土記」に「当村、慶長検地帳には上下富安の中の小名の如くなりしに、慶安以来分村せり」とあるが、慶長六年(一六〇一)の下富安村検地帳(「御坊市史」所収)の小字のほとんどが小松原村の地名で、
小松原村
こまつばらむら
小松原村
こまつばらむら
- 愛知県:豊橋市
- 小松原村
年次未詳の東観音寺由緒書(同寺蔵)に「小松原村高百弐石並海辺漁船五艘一村一円守護不入寺家進止之旨、慶長七年寅六月十六日御朱印頂戴被為仰付候」とあり、全村
小松原村
こまつばらむら
小松原村
こまつばらむら
小松原村
こまつばらむら
小松原村
こまつばらむら
小松原村
こまつばらむら
小松原村
こまつばらむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報