小松原村(読み)こまつばらむら

日本歴史地名大系 「小松原村」の解説

小松原村
こまつばらむら

[現在地名]小浜市小松原川東かわひがし・小松原川西かわにし西長にしなが町・板屋いたや

江戸時代に西津にしづ村を構成した漁村。小尻小松原こじりこまつばらともいう。堀屋敷ほりやしきの北に位置し、西は小浜湾。弁天べんてん川が西流する。両岸に集落がある。網元が多く住んで江戸時代から町場化し、川西(小尻とも)とよばれる左岸に七軒しちけん町・なかノ町・甚左衛門じんざえもん町・五軒屋ごけんや町、川東(中尻とも)とよばれる右岸に加門かもん町・角屋かどや町ができた。

室町末期には漁業集落として成立していたらしく、寛永一九年(一六四二)のくて崎網場争論目安(松吉家文書)に、当村の者が天正年中(一五七三―九二)西勢井にしせい村くて崎で網立をしていたと記される。慶長一六年(一六一一)頃、当村の助次郎・五郎太郎がくて崎網場の権利をもっており、東勢井村漁師が密漁して両人に詫状を出していることから(「くて崎網場密漁詫状写」同文書)、天正年中云々は事実であろう。


小松原村
こまつばらむら

[現在地名]熊毛町大字小松原

現熊毛町の南東部に位置し、南は小周防こずおう(現光市)束荷つかり(現大和町)両村、東は中山なかやま(現玖珂郡周東町)と接する。村域の大部分は山地であるが西寄りを島田しまた川が南西に流れ、河岸に農地を形成する。熊毛宰判に属した。

暦仁二年(一二三九)二月三日の東大寺油田進未注文(東大寺文書)に「周防小松原」とみえ、東大寺の灯油料田があった。

寛保年中(一七四一―四四)の小松原由来書に「往古予州河野殿御配地の由、其節は石高十六石前を以て御所務予州へ納方相成候」とある。河野家譜に対馬守通治が文和三年(一三五四)周防国守護に補せられたことがみえる。北朝方の大内長弘・弘長父子の跡をうけて河野通治が補せられたと思われる。寛永二年(一六二五)毛利氏の一門宍戸広匡が移封、領地は三丘みつお御領とよばれ、小松原もそのなかに含まれた。


小松原村
こまつばらむら

[現在地名]御坊市湯川ゆかわ町小松原

財部たから村の東北に位置する。建仁元年(一二〇一)の「後鳥羽院熊野御幸記」に「次寄小松原御宿(中略)此御所有水練便宜、臨深淵構御所」とみえ、後鳥羽院の熊野御幸の宿所が設けられたことがわかる。また「常楽記」康暦二年(一三八〇)三月一八日条に、了賢房の妻が小松原宿で他界したとあるように、熊野街道の宿駅として発達、近世にも伝馬所が置かれた。中世には日高の豪族湯河氏が小松原館を構え、寛正三年(一四六二)一〇月一六日、印南いなみ本郷(現日高郡印南町)の「かうますとの」に宛てた湯河政春書状(湯河家文書)は小松原から出されたものである。

街道の要衝として、湯河氏の城館下にある町として早くから集落を形成していたにもかかわらず、慶長検地高目録には村名の記載がない。「続風土記」に「当村、慶長検地帳には上下富安の中の小名の如くなりしに、慶安以来分村せり」とあるが、慶長六年(一六〇一)下富安村検地帳(「御坊市史」所収)の小字のほとんどが小松原村の地名で、下富安しもとみやす村の地名を含んでいないことから、当時の下富安村とは小松原村をさし、慶安(一六四八―五二)以降に上富安村が現在の上・下富安に分離したと考えられる。


小松原村
こまつばらむら

[現在地名]高砂市荒井町小松原あらいちようこまつばら一―五丁目・荒井町中新町あらいちようなかしんまち荒井町若宮町あらいちようわかみやまち荒井町東本町あらいちようひがしほんまち

荒井村の北東に位置し、加古川下流右岸に立地する。松原とも称され、加古郡に属した。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)の非寺領庄々のなかに京都北野社常灯用途一千二〇〇疋(一二貫文)を負担する小松原庄がみえる。長享二年(一四八八)北野社松梅院(現京都市上京区)領であった当庄が近年何者かによって押領されたという(「蔭涼軒日録」同年七月二八日条)


小松原村
こまつばらむら

[現在地名]豊橋市小松原町

小島こじま村の西に続く。海岸浸食により幾度も後退している。宝永七年(一七一〇)の引越替畝今屋敷場所付帳(東観音寺蔵)に「浜屋敷壱反三畝弐拾四歩之儀者、御了簡之上三畝廿四歩波欠分ニ而永代捨リニ被仰付」などとある。

年次未詳の東観音寺由緒書(同寺蔵)に「小松原村高百弐石並海辺漁船五艘一村一円守護不入寺家進止之旨、慶長七年寅六月十六日御朱印頂戴被為仰付候」とあり、全村東観音とうかんのん寺領である。このことは、すでに大永五年(一五二五)頃の直秀遵行状(同寺蔵)に「参州渥美郡小松原山東観音寺者、自昔不入之間、如前々於末代寺領三ケ村共ニ可為不入候、此旨不可有相違候」とあるので、これを踏襲したものであろう。


小松原村
こまつばらむら

[現在地名]長野市篠ノ井小松原

現篠ノ井の北西部、小松原道に沿う村。西に天照寺てんしようじ山を背負い、東は川中島平かわなかじまだいらに向かって開けている。北はさい川に面し対岸の小市こいち村と対し、犀口さいぐちには川中島平用水堰の取入口がある。

天文二二年(一五五三)武田晴信が村上氏に備えて大日方美作入道にあてた条目(大日方文書)に「落合半六郎・同東条左衛門佐当方に被抽忠節者、奥郡本意之上、小松原之地出置之事」とみえるのが初めで、弘治二年(一五五六)四月六日西明寺秀弘が山城国醍醐だいご寺へ上米を寄進した寄進状(三宝院文書)にも「信州住侶河中嶋小松原之郷内西明寺」と郷名を記している。


小松原村
こまつばらむら

[現在地名]安芸津町小松原

三津みつ湾に東面し、北は大田おおだ村と風早かざはや村に接する。北西部は山地で南東の海岸部がやや平坦となり、村内中央を太郎水たろみず川が南流する。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳に高一〇二・六九石を記す。古くは大田村とともに風早村に含まれていたが、福島正則の検地により独立村となったといわれる。「芸藩通志」には田畝一四町八段一畝余、高一五三・三九一石、八六戸・三九四人、牛二六、船二四(四〇〇石以下)とある。高は明治三年(一八七〇)の郷村帳(「芸藩志拾遺」所収)でも同様で、元和五年より五〇石七斗余(三三パーセント)の増加であるが、うち新田は一石一斗一升六合とされる。


小松原村
こまつばらむら

[現在地名]中辺路町小松原

温川ぬるみがわ村の東、富田とんだ川の支流なか川の源に位置し、北は笠塔かさとう山・持平もちだいら山の峰で日高郡と境される。中川に沿う山間集落で、小名下皆したかいは中心集落の西の枝谷下皆谷にある。「続風土記」に「小松原を開墾せしより村名とす」と記される。慶長検地高目録によると村高八一石余、小物成一・〇五三石。元和五年(一六一九)以降和歌山藩田辺領。三番組に所属。安永二年(一七七三)の毛付面積は八町七反で、田畑一三町二反のうち六割六分であった。


小松原村
こまつばらむら

[現在地名]下津町小松原

なか村の東に位置し、加茂かも川が村の南寄りを西流する。古くは東隣の橘本たちばなもと村の小名で、慶長検地高目録では同村のうちに入っているが、寛永一三年(一六三六)和歌浦わかのうら東照宮(現和歌山市)の神領が設定される際、分村して神領のうちに含められた。加茂組に属し、宝暦三年(一七五三)改めの加茂組書上(小松原区有文書)によれば、本田畑高一九七・九一三石、新田畑高一〇・九八五石、開起田畑〇・三〇九石(合計二〇九・二〇七石)、戸数六四、人数三七六とある。


小松原村
こまつばらむら

[現在地名]下條村小松原

現下條村の北部、阿知あち川沿いに位置する。当村の文献上の初見は天正一二年(一五八四)で、松尾まつお城の小笠原信嶺吉岡よしおか城の下条頼安とが戦った時、小松原峠から伊豆木いずき(現飯田市三穂区)高松たかまつ峠一帯が戦場になったことを記した「下条記」の記事である。幕府代官宮崎太郎左衛門は慶長一四年(一六〇九)とみられる「流帳」(松村文書)を作成しているが、その中に「小松原之郷」として百数十筆の永流・当流が記載されている。


小松原村
こまつばらむら

[現在地名]宇土市新松原しんまつばら

東は布古閑ぬのこが村、西は築籠ついごめ村、南は石瀬いしのせ村、北は松原まつばら村に接する。松原村より分村したものと思われ、元禄国絵図には「松原村之内小松原村」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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