永田村(読み)ながたむら

日本歴史地名大系 「永田村」の解説

永田村
ながたむら

[現在地名]南区永田北ながたきた一―三丁目・永田東ながたひがし一―三丁目・永田南ながたみなみ一―二丁目・永田山王台ながたさんのうだい永田ながたみなみだい永田台ながただい・永田町

東は太田おおた村・井土いど村、西は相模国鎌倉郡平戸ひらど(現戸塚区)、南は引越ひつこし村、北は保土ほど宿(現保土ヶ谷区)に接している。南に山王さんのう山があり、海上からの目当てになったという(風土記稿)。小田原衆所領役帳に宅間殿「五拾貫文 久良岐郡長田肥田中務丞」とみえる。天正一五年(一五八七)七日晦日北条家定書(県史三)の宛先に「永田小代官・百姓中」、同一八年四月日豊臣秀吉禁制(同書)に「久良岐郡内長田郷」、また同一九年八月一日の検地帳(「服部文書」横浜開港資料館蔵)に「武州久良岐郡小机之内永田之村」と出る。

近世は幕府直轄領、享保期(一七一六―三六)一村一給で二人の名主を置く村内事情が起き、幕末まで続いた(享保一二年「乍恐口上書を以奉願上候」、「差上申口上書事」服部文書)。田園簿には高三五九石弱、うち田方二九五石余・畑方六三石余、ほかに新田見取場一〇石弱、新畑見取場一二石弱、萱野塩場役永七一三文がある。


永田村
ながたむら

[現在地名]二本松市永田・大関おおぜき大森沢おおもりさわ上新田かみしんでん小関こせき栄町さかえまち新田しんでん岳温泉だけおんせん岳温泉深堀だけおんせんふかほり岳温泉西大和だけおんせんにしだいわ岳温泉大和だけおんせんだいわ岳東町だけひがしまち永田馬保内ながたばぼうち永田鍛冶内ながたかじうち永田才木ながたさいき永田御堂内ながたみどううち永田積内ながたつみうち前原まえはら

原瀬はらせ村の東に位置し、南は高越たかこし村、北は表塩沢おもてしおざわ村。地内に新田村の深堀小屋ふかぼりこやがある。天正一四年(一五八六)九月七日の二本松配分日記(伊達家文書)によれば、「をかた二郎ゑもん」に「なり田之内たかのす」が宛行われている。この「たかのす」は当地の小字たかをさすとみられる。また、「やす田蔵人主」に「長田之内やまの入」が宛行われていて、やまいりも小字名として残る。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録には長田とみえ高六九五石余。享保二一年(一七三六)の江邑日記(大玉村史)によると、本高六九五石余・新高一一九石余。


永田村
ながたむら

[現在地名]口和町永田

恵蘇えそ郡の南西部、西城さいじよう川北部に位置し、西城川の支流湯木ゆき川中流と藤根とうね川下流域を占める。南に貴船きふね(四五四メートル)がある程度で周辺の山々は低く、開けた小盆地をなす。北は湯木村、東は濁川にごりかわ(現庄原市)、南は高茂こうも(現庄原市)金田きんで村。村域北部の湯木川西岸に中郷なかごう古墳群(一―五号)があり、一号墳からは箱式石棺が出土。西部には川西かわにし古墳群(一―二号)があり、東部には出雲石いずもいし古墳がある。


永田村
ながたむら

[現在地名]飯能市永田・永田台ながただい

入間いるま川の右岸、飯能村の西に位置し、西は久須美くすみ村。長田とも書いた。永禄五年(一五六二)一一月一二日の北条氏照印判状(市ヶ谷八幡神社文書)に「長田」とみえる。同七年正月一一日の北条氏照制札(細田文書)は、「長田之村」の藤七郎・弥十郎の両名に対し、長田山は川の両岸をも御用林として保護すべきことを指示し、もし下草たりとも刈取る者があれば、取押えて滝山たきやま(現東京都八王子市)まで引連れてくるよう命じているが、この制札は検討を要する。同年一〇月一九日の北条氏照印判状(同文書)によると、長田と「分田金」の百姓の他所馳入を聞いた氏照は、両所の名主・百姓中に百姓の人改を命じている。翌八年四月二〇日の北条氏照印判状(同文書)では、去年「水口」は長田のうちと裁許したにもかかわらず、水口の百姓らが年貢を上納しないため、去年と当年の年貢を合せて長田に納めるよう命じている。


永田村
ながたむら

[現在地名]高島町永田

大溝おおみぞ城下の北にあり、東は琵琶湖に臨む。南に青冷寺せいりようじ、北に鯰川なまずかわの枝郷があり、ともに西近江路に沿う。鯰川はもと大三おおみ村と称し、現在地より東へ一〇〇間ほどの所にあったが湖中に沈み、水中に石垣・石橋が見えるという(高島郡誌)。三ッ屋千軒の伝承があり、寛文大地震により湖底となったとも考えられる。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)永田郷とあり、高九七九石。堅田慈敬寺系図(鴨慈敬寺蔵)によれば、青冷寺の由来となった清涼寺は「顕如上人之後室教光院如春尼公建立也」とある。寛永石高帳に高一千二九三石余とあり、うち大溝藩領九〇四石余・山城淀藩領三六一石余・膳所藩領二八石余。


永田村
ながたむら

[現在地名]花園町永田

長田とも記す。黒田くろだ村の北東に位置し、南は荒川を隔て男衾おぶすま畠山はたけやま(現川本町)秩父往還が東西に通り、中世の榛沢瀬はんざわせ道は西の荒川あらかわ村との境界を北上する。慶長九年(一六〇四)三三石が旗本吉田弥右衛門の知行となり、以後吉田家の知行は幕末に至る(文久元年「地頭先祖書」野辺家文書)。寛永六年(一六二九)間宮彦六(元勝)は長田村で五二石を宛行われ(記録御用所本古文書)、旗本間宮家の知行も幕末に至る。田園簿には長田村と記され、田方六三石・畑方一四二石余、旗本四家の相給。元禄郷帳では高二五三石余。寛保二年(一七四二)には高二五〇石余(田方一三町六反余・畑方七六町二反余・屋敷一町八反余)、家数八九・人数三八〇、旗本三家と幕府領の相給。


永田村
ながたむら

[現在地名]田島町永田

新町あらまち村の西、荒海あらかい川西岸の段丘上に立地。同川支流の檜沢ひさわ川が北境を東流し、北東端で合流する。上坪かみつぼ百目貫どうめき富田とみだおよび端村今生いまのうの五坪からなる。上和田原うわだはらに縄文時代の遺跡がある。中世には長江ながえ庄に含まれ、長田と記した。元徳三年(一三三一)九月一五日の長沼宗実譲状案(皆川文書)に「長田の村」とみえ、五郎(高宗か)と虎法師が半分ずつ知行し、一期の後は惣領高宗方へ譲るとしている。元弘三年(一三三三)九月宗実は長江庄内長田村などの地頭職安堵の綸旨を申請し(「長沼宗実申状」同文書)、建武元年(一三三四)六月一三日に認められている(「後醍醐天皇綸旨案」伊達家文書)


永田村
ながたむら

[現在地名]平田村永田

長田とも記される。阿武隈高地の山間、北須きたす川上流の谷間に位置し、東は鴇子とうのこ村、西は大柿おおがき村・北向きたむこう村、南は東山ひがしやま村。当地を「和名抄」にみえる白河郡長田郷の遺称地とする説がある。中世城館跡は四ヵ所が知られるが、石川三芦城(楓軒文書纂)に「永田 面川氏居住」とあるのを信頼すれば、応永一一年(一四〇四)頃と推定される国人一揆傘連判断簡(秋田藩家蔵白川文書)にみえる「面川 掃部助光高」と、明応五年(一四九六)と推定される八月四日の石川一家同心状案(八槻文書)の傘連判に名を連ねる面河宗信は当地の館主となろう。


永田村
ながたむら

[現在地名]恵那市長島町永田おさしまちようながた

恵那盆地西端の平地と、それをとりまく丘陵からなり、南部はなべ山に続き山が深い。東流する永田川が村内で北に向きを変える。北と東は中野なかの村、西は野井のい村に接する。天正一七年(一五八九)の検地帳(羽根文書)に長田村とあり、同年一〇月二五日に検地が実施されており、本高二五〇石余、うち山高四三石余・荒地三四石余があった。関ヶ原の合戦後、大給松平氏(岩村藩)領となり、以後幕末まで同藩領。


永田村
ながたむら

[現在地名]浜松市和田町わだちよう

天竜川と馬込まごめ川の間の平野にあり、ほぼ中央を東西に東海道が通る。東は橋羽はしわ村、西は大蒲おおかば村と宮竹みやたけ村。長田とも記された。中世はかば御厨のうち。松平忠頼領郷村帳に長田村とみえ高五三七石余、田三〇町八反余・畑二三町余。慶長一五年(一六一〇)の水野重仲知行割帳にも長田村とみえる。領主の変遷は西にし村と同じ。延宝(一六七三―八一)頃の青山氏領分絵図では本田五三九石余・新田二四石余、百姓林二反余。


永田村
ながたむら

[現在地名]川辺町永田

北流する広瀬ひろせ(万之瀬川)の西岸に位置し、対岸は田部田たべた村。西にし古市ふるいち中福良なかふくらかみの集落がある。長田とも記される。嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(千竈文書)によると、「なかたのむら」などが時家の次男経家に譲られている。応永二八年(一四二一)三月二日の大寺元幸が鹿屋玄兼に与えた坪付(旧記雑録)に「河辺内 一長田門 水田五町」とみえる。年未詳七月一〇日の河辺郡知行目録写(長谷場文書)には「長田之村 八丁」は別府氏の所領とみえ、以前は鹿屋氏など四氏の知行地であったと記される。寛政一二年(一八〇〇)書写の諸郷村附並浦附(県立図書館蔵)に永田村とみえるが、江戸期の郷村帳などに長田村とも記される。


永田村
ながたむら

[現在地名]大網白里町永田・ながた・みやこ

神房かんぼう村の東に位置し、北東部を小中こなか川が流れる。神明しんめい一帯の尾根を削平した小規模の曲輪は一六世紀中頃の永田城の遺構であるという。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一千四八四石。慶長一六年(一六一一)に検地が行われた(大網白里町史)。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では永田組に属し、旗本本多領六〇〇石余・同石来領五〇〇石余・同大導寺領四〇〇石余。元禄郷帳では高一千五四五石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数一六五、幕府領、三卿の清水領と旗本大導寺・伴・小栗・河内・神谷・阿部領。


永田村
ながたむら

[現在地名]城東区永田三―四丁目・東中浜ひがしなかはま六丁目・同九丁目

左専道させんどう村の南西にあり、南端を千間堀せんげんほり川が西流。集落はその右岸中央部にある。中世は四天王寺(現天王寺区)新開しんかい(現東成区)に含まれたと推定される。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図は「長田村」と表記。元和元年(一六一五)から同五年まで大坂藩松平忠明領、続いて幕府領となり、幕末には大坂城代領(役知)。元和初年の摂津一国高御改帳では高二三六石余、享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調では三一二石余に増加し、以後の変化はない。


永田村
ながたむら

[現在地名]木造町永田

西は土滝つちたき村に続き、田圃を隔てて北に吉水よしみず村、東に永岡ながおか村、南に蓮花田れんげた村。

慶安三年(一六五〇)の開村という(西津軽郡史)。天和三年(一六八三)の広須御新田所図に村名がある。菅江真澄の「外浜奇勝」には長田村とある。享保一二年(一七二七)広須組に属し、広須通二三ヵ村の一つで村位は下とある(平山日記)。元文元年(一七三六)の検地帳によれば、田畑屋敷合せて三九町一反八畝三歩、村高二二〇・〇四六石とある。うち田方は三七町二反三畝四歩で二一三・二一二石、上・下・下々田と設定され、下々田が二六町一反四畝一三歩、一三〇・七一九石とあり、畑方は一町九反四畝二九歩で六・八三四石、下畑と下々畑のみで、下畑が一町一反六畝三歩、三・四八三石とある。


永田村
ながたむら

[現在地名]鹿島町永田

南屋形みなみやかた村の枝郷。南東流する真野まの川の北岸、丘陵地の南側に開け、東と南は南屋形村。西端を浜街道が南北に走り、横手よこて村との境をなす。同村から東に連なる丘陵上に古墳、南斜面に横穴墓群が点在する。明暦二年(一六五六)南屋形村より分村(相馬藩政史)天保郷帳では同村に「古者 南屋形村・永田村弐ケ村」と注記される。明暦二年の高六五石余(相馬藩政史)


永田村
ながたむら

[現在地名]富士市永田町・永田北町ながたきたちよう・永田など

吉原よしわら宿の南西、伝法でんぼう村の南、潤井うるい川下流域左岸に位置する。元禄郷帳に永田村とみえ高七九石余、幕末まで同高。国立史料館本元禄郷帳によれば旗本坂部領。


永田村
ながたむら

[現在地名]長岡市永田町・永田二―四丁目・堀金ほりがね三丁目・新保にいぼ一丁目

長岡町北東郊外の平坦地、栃尾往来に沿ってある。西は新保村、南は堀金村、東は小曾根こぞね村、北東は亀貝かめがい村、北は稲葉いなば村。亀貝村枝郷として開発されたが、立村の年代は不詳。


永田村
ながたむら

[現在地名]松本市島立 永田

永享一一年(一四三九)の結城陣番帳に「永田殿」の記事があり、その頃小領主として同名の武士がいたと思われる。

寛永一九年(一六四二)の信州松本御領分村々高附帳に初めて「長田村壱百八拾壱石四升五合」とあり、松本藩領島立組に属していたが、正徳三年(一七一三)から享保一〇年(一七二五)まで松本藩水野家の分家である水野壱岐守の領分となり、笹部藩一万石の野溝のみぞ組に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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