大森城跡(読み)おおもりじようあと

日本歴史地名大系 「大森城跡」の解説

大森城跡
おおもりじようあと

[現在地名]福島市大森

じよう(鷹峯山、一四三・六メートル)に位置。臥牛がぎゆう城・白鳥しらとり城とも称された。築城の時期は明らかでないが、南北朝時代は佐藤基治の後裔信夫十郎盛衡が城主であったという伝承がある(「小手濫觴記」福島県史)。本格的に整備されたのは伊達氏天文の乱以降とみられ、伊達輝宗・政宗父子の時代は米沢城から板谷いたや峠越で結ばれ、南奥羽侵攻のための重要な拠点とされた。伊達輝宗日記(伊達家文書)には、天正二年(一五七四)四月四日条をはじめとして大森の地名が散見され、当城主である伊達実元・成実父子との間で頻繁に交渉があったことが知られる。同一三年には伊達成実が城主であった(「貞山公治家記録」同年五月九日条)。翌一四年九月には成実は二本松城に移り、代わって片倉景綱が城主となった(同書同月二五日条)。同一六年五月一五日、伊達政宗は田村氏より要請されていた石川弾正攻撃のため米沢を出発し、同日夕方当城に入った。


大森城跡
おおもりじようあと

[現在地名]大森町大森公園

大森の北東、標高一〇〇メートルぐらいの山地にあり、南端が雄物川西岸低地に望み眺望が良い。

天正(一五七三―九二)の頃、横手城を拠点に周辺を支配していた小野寺義道の弟、孫五郎康道が構えた城跡。天正一八年八月、豊臣秀吉から出羽検地の命を受けた上杉景勝が大森城に入った(上杉景勝年譜)。同年九月下旬、仙北各地に検地反対の一揆が起こり、一揆の鎮圧後、上杉景勝・横目付大谷吉継は上杉家臣色部次郎兵衛に後事を託して大森を去った(「大谷吉継書状」色部文書)

慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦で小野寺氏は上杉方につき、最上義光を攻めた。


大森城跡
おおもりじようあと

[現在地名]三間町元宗

三間盆地のほぼ中央部にある大森城山(三一六メートル)にある。山頂は人工的に平坦に削り取られ、この頂上部から下の傾斜は険しい。したがって三間盆地を一望のもとに見渡すことができ、要害の地というよりも地理的な有利性にこの山城の利点がある。城主は土居清良であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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