大矢 市次郎
オオヤ イチジロウ
- 職業
- 俳優
- 別名
- 前名=藤川 栄六
- 生年月日
- 明治27年 2月11日
- 出生地
- 東京・浅草
- 経歴
- 9才のとき真砂座伊井蓉峰一座の子役のエキストラ募集に応じ、伊井門下藤井六輔の弟子となる。藤川栄六を名乗り小山内薫に可愛がられた。その後、家計を助けるため小芝居小屋を転々とし、本名のまま出演していたが、伊井に呼び戻され大正13年直弟子として真砂座に復帰。昭和7年伊井が死没、喜多村緑郎一座に加わった。14年花柳章太郎の新生新派に参加してからメキメキ名をあげた。戦後は劇団新派の中枢として花柳、水谷八重子らを脇から支え新派興隆の大きな力になった。「明治1代女」の巳之吉、「婦系図」の酒井俊蔵、「風流深川唄」の長蔵などが当り役で、その渋い芸は多くの観客を魅了、新派黄金時代を築いた。著書に「日々願うこと」がある。
- 受賞
- 日本芸術院賞〔昭和37年〕 毎日演劇賞〔昭和29年〕
- 没年月日
- 昭和47年 5月28日 (1972年)
- 伝記
- みごとな幕切れ 戸板 康二 著(発行元 三月書房 ’90発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
大矢 市次郎
オオヤ イチジロウ
大正・昭和期の俳優
- 生年
- 明治27(1894)年2月11日
- 没年
- 昭和47(1972)年5月28日
- 出生地
- 東京・浅草
- 別名
- 前名=藤川 栄六
- 主な受賞名〔年〕
- 毎日演劇賞〔昭和29年〕,日本芸術院賞〔昭和37年〕
- 経歴
- 9才のとき真砂座伊井蓉峰一座の子役のエキストラ募集に応じ、伊井門下藤井六輔の弟子となる。藤川栄六を名乗り小山内薫に可愛がられた。その後、家計を助けるため小芝居小屋を転々とし、本名のまま出演していたが、伊井に呼び戻され大正13年直弟子として真砂座に復帰。昭和7年伊井が死没、喜多村緑郎一座に加わった。14年花柳章太郎の新生新派に参加してからメキメキ名をあげた。戦後は劇団新派の中枢として花柳、水谷八重子らを脇から支え新派興隆に大きな力になった。「明治一代女」の巳之吉、「婦系図」の酒井俊蔵、「風流深川唄」の長蔵などが当り役で、その渋い芸は多くの観客を魅了、新派黄金時代を築いた。著書に「日々願うこと」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
大矢市次郎
おおやいちじろう
(1894―1972)
俳優。本名同じ。東京・浅草生まれ。14歳で新派俳優藤井六輔(ろくすけ)の門下となり、真砂(まさご)座で初舞台を踏む。以後地方の芝居を転々としたが、1924年(大正13)伊井蓉峰(ようほう)に認められ東京の新派に入り、脇役(わきやく)としての地位を築いた。38年(昭和13)花柳(はなやぎ)章太郎とともに新生新派を結成、風格のある演技は新派に不可欠のものであった。『浪花女(なにわおんな)』『風流深川唄(うた)』で花柳の相手役を勤めたほか、当り役に『明治一代女』の己之吉(みのきち)、『大寺(おおでら)学校』の大寺校長などがある。
[菊池 明]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
大矢市次郎
おおやいちじろう
[生]1894.2.11. 東京
[没]1972.5.28. 東京
新派俳優。 1907年伊井蓉峰一座で子役として初舞台を踏む。その後伊井門下の藤井六輔の弟子となったが,23年『不如帰 (ほととぎす) 』の博多公演で伊井に認められ,その直門に加えられた。 39年花柳章太郎らと新生新派を結成。川口松太郎作『明治一代女』の巳之吉など特異な脇役で真価を発揮,やがて独特の風貌と声が珍重されて,新派を支える中心俳優の一人となった。ほかに『婦系図』のめの惣,『鶴八鶴次郎』の佐平,『日本橋』の五十嵐伝吾などが当り役。 62年日本芸術院賞受賞。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
大矢市次郎 おおや-いちじろう
1894-1972 大正-昭和時代の舞台俳優。
明治27年2月11日生まれ。14歳で藤井六輔の門弟となり,藤川栄六を名のった。大正13年伊井蓉峰(ようほう)の直弟子となる。昭和14年花柳(はなやぎ)章太郎らとともに新生新派を結成。しぶい演技に定評があった。当たり役に「明治一代女」の巳之吉など。昭和47年5月28日死去。78歳。東京出身。
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大矢 市次郎 (おおや いちじろう)
生年月日:1894年2月11日
大正時代;昭和時代の俳優
1972年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の大矢市次郎の言及
【新派】より
…すでに10年に[井上正夫]は〈新時代劇協会〉をおこしG.B.ショーの《馬盗人》などを上演して新境地を開こうとしていたし,13年には河合武雄が〈公衆劇団〉を結成,また文壇を追われた[真山青果]が松竹に入社して,亭々生の名で《黒髪物語》や《雲のわかれ路》の作品を作り〈新派〉を支えようとした。16年に高田と秋月,17年に藤沢が没し,〈新派〉は伊井,河合,喜多村のいわゆる〈三頭目時代〉となったが,21年に若い[花柳(はなやぎ)章太郎]が藤村秀夫,小堀誠,武田正憲,柳永二郎,松本要次郎,大矢市次郎,伊志井寛らと研究劇団として〈新劇座〉を結成,有島武郎《ドモ又の死》や秋田雨雀《国境の夜》の上演をしたり,また井上が《酒中日記》《平将門》を上演するなど一部で意欲的な活動はあったものの,全般には映画や新国劇の人気に押されがちで低調だった。なお,24年にもともと新劇から出発した[水谷八重子]を中心にした第2次芸術座ができて,27年に本郷座で藤森成吉《何が彼女をさうさせたか》を上演,以降松竹と提携して,いわゆる〈新派〉の一角に加わってきた。…
※「大矢市次郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」