劇作家,演出家,小説家。青年時代劇評を書くとき撫子(なでしこ)と称した。広島市で生まれた。1885年に上京,東京帝国大学英文科に学び,川田順と同人雑誌《七人》を作り,その特別号として詩集《小野のわかれ》を世に問うた。森鷗外とその弟三木竹二に認められ,雑誌《歌舞伎》に執筆する一方,真砂座を本拠にしていた新派俳優伊井蓉峰一座の文芸部員となり,演出の技術を学んだ。当時の生活は小説《大川端》に書かれているが,青年の日の小山内の多感な姿が示されている。やがて狂歌仲間として親しかった2世市川左団次が外遊から帰国したのを迎えて,1909年〈自由劇場〉という会員制で新劇を見せる形の演劇運動をはじめ,イプセンの《ジョン・ガブリエル・ボルクマン》以降,ゴーリキーの《夜の宿(どん底)》,ハウプトマンの《寂しき人々》,森鷗外の《生田川》など9回の公演を行い,坪内逍遥の〈文芸協会〉とともに,わが新劇界の草創期を形成した。その間1913年には帝政ロシアに行き,モスクワ芸術座を見て,再演の《夜の宿》を大きく訂正している。19年自由劇場を解散したのは左団次の本業歌舞伎の舞台が多忙になったからだが,この俳優のために,その後も鶴屋南北の《謎帯一寸徳兵衛(なぞのおびちよつととくべえ)》を演出したり,《西山物語》《森有礼》,現代語にした《博多小女郎波枕》などを書いて生涯の親友であった。20年松竹キネマに入社,みずから主演した《路上の霊魂》を演出,芸術映画といわれるフィルムを作った。23年の関東大震災のあと,ドイツから帰ってきた演出家土方与志(ひじかたよし)とともに,廃虚と化していた東京築地に,〈演劇の実験室〉として〈築地小劇場〉を開場,もう一人の演出家青山杉作と3人が交代して,24年6月の《海戦》《休みの日》の第1回公演以降,俳優を育て,多くの西欧戯曲を紹介した。はじめ現代の日本戯曲に意欲がわかないので翻訳劇に専念すると宣言,当時の劇作家から激しく反発されたが,やがて《役の行者》を皮切りに創作劇も舞台にのせ,自作《国性爺合戦(こくせんやかつせん)》も上演している。27年には再びロシアに行き,2世左団次のソ連公演を推進したが,病を得て同行はできなかった。28年12月築地小劇場の《晩春騒夜》打上げの会に招かれた席上急逝,まもなく劇場および劇団は分裂した。没後全集が刊行され,その門人久保栄とジャーナリストの堀川寛一が《小山内薫》という評伝を書いている。晩年,《朝日新聞》に連載した劇評はみごとであった。小山内47年の一生はつねに新しい世界を追求する開拓者の精神と,都会的な感覚を文体にした作品とによって充実している。第2次世界大戦後の新劇を復興させた俳優は,みな築地小劇場出身である。
執筆者:戸板 康二
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演出家、劇作家、小説家。明治14年7月26日広島県に生まれる。4歳のとき陸軍軍医であった父が死亡し、一家とともに東京に移る。1906年(明治39)東京帝国大学英文科卒業。在学中から伊井蓉峰(ようほう)一座に出入りし、森鴎外(おうがい)の知遇を得て劇評や翻訳を手がけ、1907年には雑誌『新思潮』(第一次)を発刊して、劇文壇に新風を吹き込んだ。1909年、遊学から帰朝した2世市川左団次と組んで自由劇場を結成、その第1回公演としてイプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を取り上げ、ヨーロッパ近代劇の導入による新劇運動の火ぶたを切った。1912~1913年(大正1~2)外遊。帰国後は市村座の幕内顧問となって商業劇場の改革にあたり、自由劇場解散後の1920年には松竹キネマの研究所顧問に迎えられ、映画『路上の霊魂』製作の総指揮にあたった。村田実、牛原虚彦(きよひこ)、伊藤大輔(だいすけ)らは松竹時代の弟子である。関東大震災により一時大阪に移ったが、1924年土方与志(ひじかたよし)の懇望を受けて東京に戻り、同志とともに築地(つきじ)小劇場を設立した。築地小劇場は、ヨーロッパ近代戯曲の本格的移植を当面の目的とし、演出の確立、近代俳優の養成、指導理念の提唱など、その後の日本演劇の進展に計り知れぬ影響を与えたが、彼はその最大の指導者であった。1927年(昭和2)ロシア革命10周年記念祭に招かれて参加したが、翌年(昭和3)12月25日のクリスマスの夜、築地小劇場上演慰労会の席上、心臓発作のため死去した。「新劇の父」とよばれる。著書として、『演出者の手記』『演劇論叢(ろんそう)』などの評論のほか、戯曲に『第一の世界』(1921)、『息子』(1922)、『西山物語』(1924)、『森有礼(ありのり)』(1926)、小説に『大川端』(1912)などがある。なお、放送劇の開拓者としても知られ、1925年にはわが国初の本格的ラジオドラマ『炭坑の中』(リチャード・ヒューズ原作)の翻訳・指揮にあたっている。洋画家岡田三郎助の夫人で劇作家の岡田八千代は実妹、画家藤田嗣治(つぐじ)は従兄弟(いとこ)(母親同士が姉妹)にあたる。
[大島 勉]
『『小山内薫全集』全8巻(1975・臨川書店)』▽『『小山内薫演劇論全集』全5巻(1964~1968・未来社)』▽『久保栄著『小山内薫』(角川新書)』▽『水品春樹著『小山内薫』(1961・時事通信社)』
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明治・大正期の演出家,劇作家,演劇評論家,小説家,詩人 築地小劇場創立者。
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1881.7.26~1928.12.25
明治・大正期の劇作家・演出家・小説家。広島県出身。東大英文科卒。1909年(明治42)2世市川左団次とヨーロッパ近代劇運動の全面的移植を試み,自由劇場を創立。坪内逍遥(しょうよう)の文芸協会とともに日本新劇界の草創期を形成した。関東大震災後の24年(大正13)土方与志(ひじかたよし)が築地小劇場を開設すると同人として参加,多くの演出を手がけた。
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…現実の人生と舞台上の虚構の人生とを混同する行過ぎもあったが,世紀末の大劇場で当たっていたスター中心のだまし絵的なウェルメード・プレーの虚偽と誇張を暴露して,現代劇への道を開いた。1894年にはアントアーヌの手をはなれ,96年には経営難で解散したが,演出家リュニェ・ポーや名優F.ジェミエもここから巣立ち,ベルリンの〈自由舞台〉や市川左団次と小山内薫の〈自由劇場〉など世界的な影響を残した。【安堂 信也】
[ブラームの自由舞台Freie Bühne]
1889年にパリの自由劇場に倣ってベルリンに設立された協会で,検閲で上演できぬ戯曲を会員だけに見せることを主たるねらいとしていた。…
…逍遥はシェークスピア劇の移植と歌舞伎の改革を目ざし,また西欧近代を呼吸して帰国した弟子の島村抱月は,イプセンの《人形の家》など,逍遥以上に西欧近代劇の移入に熱心であった。 一方,歌舞伎俳優として初の渡欧体験を持ち,しかし帰国後の革新興行には失敗した2代目市川左団次と,1906年に〈新派〉を失望裡に離れた小山内薫は,共同して09年に自由劇場を創設,試演活動を開始した。これは〈日本の劇壇に脚本・演技の両面で真の(西洋近代劇の)翻訳時代を興す〉意図で行われ,以後14年にかけて意欲的な活動を展開した。…
…文芸雑誌。小山内薫(おさないかおる)の個人編集による演劇中心の芸術総合誌として,1907年(明治40)に創刊されたのに始まる。10年再刊の第2次から同人制の文芸雑誌となり,今日まで東大系の雑誌として19次に及ぶ。…
…東京生れ。国民英学会の夜学で英文学を学んだのち,新派(藤沢浅二郎)の東京俳優学校に入学し,そこで教授をしていた〈新劇の父〉小山内(おさない)薫から近代劇のドラマトゥルギーや演技のリアリズムを学んだが,新劇では生計が立たず,1917年,当時は新派悲劇的作品を粗製していた日活向島撮影所に入り,翌18年,監督第1作《暁》を発表した。次いで,芸術座が舞台にのせて大成功したトルストイの《生ける屍》(1918)を映画化し,まだ〈活動写真〉の域を脱しきれないものではあったが,演出や演技指導には古い新派の型を破ろうとする新鮮な意欲が見られ,カット・バック,移動撮影,逆光線撮影などが効果的に使用されて注目を浴びた。…
…(2)劇団名。〈劇場は付属劇団を持つ〉という原則にのっとり,上記築地小劇場の付属劇団として小山内薫(おさないかおる)と土方与志を中心に,非商業主義と純芸術主義の旗を掲げて同じ1924年に発足した新劇団。新築の築地小劇場を本拠地に小山内,土方,汐見洋(しおみよう),友田恭助,和田精(せい),浅利(あさり)鶴雄が同人となり(1ヵ月後に青山杉作が加わる),第1回公演にはR.ゲーリングの表現主義劇《海戦》ほかを上演,観客に強い衝撃と新鮮な感動を与えた。…
…こうして日活は,〈活動写真〉の時代から〈映画〉の時代へ入っていく。
【小山内薫と谷崎潤一郎】
[小山内薫と松竹]
〈活動写真〉が〈映画〉に生まれ変わっていくに際し,大きな役割を果たした人物の一人に,〈新劇の父〉小山内(おさない)薫がいる。1920年,松竹が演劇界から映画界への進出を目ざして松竹キネマ合名社(のち株式会社)を設立したとき,小山内薫は理事として招かれるとともに松竹キネマ俳優学校の校長に就任,東京蒲田の撮影所が開設されるや,総監督を任ぜられた。…
…1幕。小山内薫作。1922年7月《三田文学》に発表。…
※「小山内薫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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