伊井蓉峰(読み)イイヨウホウ

デジタル大辞泉 「伊井蓉峰」の意味・読み・例文・類語

いい‐ようほう〔いゐ‐〕【伊井蓉峰】

[1871~1932]新派俳優東京の生まれ。本名、申三郎。新派大合同劇の座長格。端麗な容姿と都会的な芸風で、新派の代表的な俳優として活躍した。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「伊井蓉峰」の意味・読み・例文・類語

いい‐ようほう【伊井蓉峰】

  1. 新派俳優。本名申三郎。東京出身。明治四一年(一九〇八)以後「新派大合同劇」の座頭となり、河合武雄喜多村緑郎と新派三頭目時代をつくった。「いい容貌」からの芸名。明治四~昭和七年(一八七一‐一九三二

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「伊井蓉峰」の解説

伊井 蓉峰
イイ ヨウホウ


職業
俳優

本名
伊井 申三郎

別名
俳名=十千里園 薬舎,白峰

生年月日
明治4年 8月16日

出生地
東京府 日本橋呉服町(東京都 中央区)

経歴
父は写真師で、浅草の奇人といわれた北庭筑波。医学予備校、独逸協会学校で学び、18歳の頃から給仕として神戸三井銀行に勤務。当初は新聞記者や小説家を志し、父の親友である洋学者・大槻如電に相談するが反対され、代わりに洋行帰りで壮士芝居をしていた川上音二郎のことを教わる。さらに演劇改良にも取り組んだ漢学者・依田学海を訪ねて話を聞くうちに俳優志望に転じ、学海の勧めで、24年浅草・中村座で旗揚げした川上音二郎一座に参加した。しかし、川上の芝居と傲慢な性格が気に入らず直ぐに脱退。同年学海の後援で千歳米坡らと浅草の済美館を拠点とした男女合同改良演劇運動を興し、女形は女性が演じるなどの写実主義や、政治色を排した芸術至上主義の演劇を推進した。この頃から、富士山の別名で学海が名付けた蓉峰の芸名を名乗る。運動が頓挫してからは再び川上一座に身を置いたが、28年佐藤歳三、水野好美とともに浅草座で伊佐水(いさみ)演劇を旗揚げして市内の小劇場で公演。29年からは伊井一座を称して座長となり、河合武雄らの共演を得て、31年には歌舞伎座に進出した。35年真砂座で近松物の「心中天網島」を試演したのが識者の評判となり、以後も漱石や鴎外・藤村などの近代文学や、シェイクスピア劇を原作に忠実に上演して好評を博す。42年新派大合同で座頭となり、本郷座に出演し人気を得、大正元年には明治座の座主に就任した。6年松竹傘下に入り、自身と河合、喜多村緑郎とによる新派三頭目の一座が成立。12年関東大震災後に関東の演劇人が関西へ移る中、東京に残って孤軍奮闘し、当時の新聞に載っていた三面記事の劇化などを行う。昭和3年牧野省三監督の映画「実録忠臣蔵」に出演。その後、養子の伊井友三郎らと本国劇を興すも振るわず、6年再び松竹の傘下に入り、復帰第1作目となる「二筋道」が大ヒットした。「金色夜叉」の貫一、「婦系図」の早瀬などが当たり役。著書に「伊井蓉峰脚本集」「日本の演劇の説」がある。

没年月日
昭和7年 8月15日 (1932年)

家族
父=北庭 筑波(写真師)

親族
女婿=伊井 友三郎(俳優)

伝記
団菊以後 伊原 青々園 著(発行元 青蛙房 ’09発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「伊井蓉峰」の解説

伊井 蓉峰
イイ ヨウホウ

明治〜昭和期の新派俳優



生年
明治4年8月16日(1871年)

没年
昭和7(1932)年8月15日

出生地
東京市日本橋区呉服町(現・東京都中央区)

本名
伊井 申三郎

別名
俳名=十千里園 薬舎,白峰

経歴
医学予備校、独逸協会学校で学び、神戸三井銀行に勤務。明治24年浅草・中村座で旗揚げした川上音二郎一座に参加したが、書生芝居が気に入らず脱退。同年浅草済美館に男女合同改良演劇を組織。28年佐藤歳三、水野好美とともに伊佐水(いさみ)演劇を結成、浅草座で旗揚げし、市内の小劇場で公演、31年歌舞伎座に進出。35年真砂座で近松物やシェークスピア劇の新演劇などを試みた。42年の新派大合同で座頭となり、本郷座に出演し人気を得、大正元年には明治座の座主になった。4年河合武雄と結び、6年には松竹傘下に入り、さらに河合、喜多村緑郎の新派三頭目の一座が成立した。昭和6年には「二筋道」が大ヒットした。「金色夜叉」の貫一、「婦系図」の早瀬などが当たり役。著書に「伊井蓉峰脚本集」「日本の演劇の説」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「伊井蓉峰」の意味・わかりやすい解説

伊井蓉峰【いいようほう】

新派俳優。本名北庭申三郎。写真師北庭筑波の子として東京に生まれた。銀行員から川上音二郎一座に入り,のち退座して男女合同改良演劇済美館(せいびかん)を組織,新演劇の創造を企図した。また佐藤歳三,水野好美と伊佐水(いさみ)演劇を起こし,1909年新派大合同の際には座長となった。大正期には,河合武雄喜多村緑郎とともに新派三巨頭時代をつくり活躍。当り役は《不如帰(ほととぎす)》の武男,《金色夜叉》の貫一など。
→関連項目井上正夫

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「伊井蓉峰」の意味・わかりやすい解説

伊井蓉峰 (いいようほう)
生没年:1871-1932(明治4-昭和7)

俳優。本名申三郎,東京日本橋に生まれる。1891年浅草の吾妻座で男女合同改良演劇〈済美館(せいびかん)〉の旗揚げをし,千歳米坡(ちとせべいは)という女優を生んで,芸術主義の写実劇をめざした。1902年に近松劇を原作のまま上演して注目され,12年に明治座の座主となり,名実ともに新派界三巨頭(他に河合武雄,喜多村緑郎)の筆頭となった。当り役は《不如帰(ほととぎす)》の武男,《金色夜叉(こんじきやしや)》の貫一など。新派を統率した親分肌で知られた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊井蓉峰」の意味・わかりやすい解説

伊井蓉峰
いいようほう
(1871―1932)

俳優。写真師北庭筑波(きたにわつくば)の子として東京・日本橋に生まれる。独逸(ドイツ)学協会に学び、銀行勤務を経て1891年(明治24)の済美館(せいびかん)演劇に参加し、千歳米坡(ちとせべいは)の相手役を演じて美男俳優として認められた。彼には川上音二郎らの壮士芝居とは異なる出発をしたという意識が強く、実際に芸風も彼らとは違い、旧派俳優と一座して歌舞伎(かぶき)の演目を手がけたり、文芸作品の劇化上演を試みたりした。また、1902年(明治35)から約4年間にわたる近松研究の成果はかなり注目された。明治末には名実ともに新派の第一人者となり、大正期には河合武雄、喜多村緑郎(ろくろう)とともに活躍して今日の新派の基礎を築いた。

[松本伸子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊井蓉峰」の意味・わかりやすい解説

伊井蓉峰
いいようほう

[生]明治4(1871).9.30. 東京
[没]1932.8.15. 東京
新派俳優。本名北庭申三郎。 1891年,銀行勤務をやめて川上音二郎一座に参加。同年依田学海の後援で男女合同改良演劇を標榜して済美館で旗揚げ,95年伊佐水 (いさみ) 演劇を興し,『心中天網島』はじめ近松の作品を忠実に上演。鴎外のせりふ劇や,藤村,漱石,紅葉,蘆花その他の文芸作品と意欲的に取組み,1915年の新派大合同劇では座長になった。すぐれた容姿と写実的な演技で,河合武雄,喜多村緑郎と新派の3頭目時代を現出。代表的な役は『不如帰』の武男,『金色夜叉』の貫一,『婦系図』の早瀬,『二筋道』の阿久津など。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「伊井蓉峰」の解説

伊井蓉峰

没年:昭和7.8.15(1932)
生年:明治4.8.16(1871.9.30)
明治から昭和期の新派俳優。東京生まれ。本名申三郎。父は写真師北庭筑波。川上音二郎一座を経て,明治24(1891)年東京浅草に男女合同改良演劇済美館を旗揚げし,写実劇を試みた。35年原作に忠実な近松研究劇を上演し注目され,森鴎外の戯曲を初演するなど文学的志向を強めていった。41年新派大合同の座長となり,大正期には河合武雄,喜多村緑郎と共に新派劇の中心俳優として活躍,すぐれた容貌で人気を集めた。当たり役は「不如帰」の武男,「金色夜叉」の貫一,「二筋道」の阿久津などである。<参考文献>柳永二郎『伊井蓉峰年代記』

(藤木宏幸)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊井蓉峰」の解説

伊井蓉峰 いい-ようほう

1871-1932 明治-昭和時代前期の俳優。
明治4年8月16日生まれ。北庭筑波(きたにわ-つくば)の子。明治24年男女合同改良演劇の済美(せいび)館を結成する。35年東京真砂座で近松劇を上演。42年新派大合同劇では座頭となる。大正期には河合武雄,喜多村緑郎と新派三頭目時代をつくった。昭和7年8月15日死去。62歳。東京出身。独逸(ドイツ)学協会学校卒。本名は申三郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「伊井蓉峰」の解説

伊井蓉峰
いいようほう

1871〜1932
明治・大正時代の新派俳優
東京の生まれ。初め川上音二郎一座にいたが,1908年以来新派劇の頭目として活躍し,その基礎を築いた。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「伊井蓉峰」の解説

伊井 蓉峰 (いい ようほう)

生年月日:1871年8月16日
明治時代-昭和時代の新派俳優
1932年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の伊井蓉峰の言及

【新派】より

…演技・演出ともに基本的には歌舞伎の物まねであったが,書生的な蛮声をはりあげての弁舌が注目された。もう一つの出発点は,91年11月に浅草の吾妻座で伊井蓉峰(ようほう)が〈男女合同改良演劇〉と称して〈済美館(せいびかん)〉を興し,依田学海《政党美談淑女之操》などを上演し,また翌年7月市村座で山口定雄が,93年6月吾妻座で福井茂兵衛(1860‐1930)が,それぞれ一座を組織し旗揚げをした動きである。彼らには政治色はまったくなく山口は元歌舞伎役者だし,伊井も芝居好きで銀行勤めからこの世界にとびこんだ人間であった。…

※「伊井蓉峰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android