翻訳|ethics
倫理学は倫理に関する学である(〈倫理〉〈倫理学〉の語義については〈道徳〉の項を参照されたい)。それは古代ギリシア以来歴史の古い学であり,最初の倫理学書といえるアリストテレスの《ニコマコス倫理学》と,近代におけるカントの倫理学とによって,ある意味では倫理学の大筋は尽くされているといえなくもないし,また倫理学の長い歴史を踏まえて,その主題とされている事柄,たとえば善,義務,徳などについて,一般に認められている考え方を述べることは可能である。だが他面,倫理学についてその学としての可能性を否認する立場もありうるし,そうでなくても,それぞれの倫理学者の立場によって,その倫理学の概念が異なっているのは,ある程度まで必然的なことである。
他の学,たとえば自然科学や数学の場合とは違って,たとえ倫理学について何も知らなくても,健全な常識さえあれば,倫理については基本的な理解をもちうるのであり,倫理学のなすところは,常識的理解に内含されている倫理の純粋な要素だけを取り出してくることに尽きる。しかし倫理については種々の謬見や邪説もありうるのだから,それらと正しい説とを見分けるに足る批判力を身に付けるという意味では,倫理学についての素養もある程度の有効性をもちうると,カントなどは考えている。さらに,これはアリストテレスなどがすでに明確にとっている立場なのであるが,倫理の問題となると,それについて知識を有することも重要ではあるが,結局はそれが実践として正しく現実化されることが肝要である。当の知識が単なる空理空論であって,実践的にはまったく無効であるとすれば,それは倫理的には無意義なことであり,むしろ逆に,倫理学などまったく知らなくても,当人が一個の信頼すべき人間として行動し生活できるというほうがよほど有意義であるという事情が,倫理の問題にはある。
ところで他方,倫理学において,人間生活と倫理との関係はどうとらえられてきたかという点については,二つの対照的な立場が認められる。その一方の,現代における代表的なものとしては,倫理を人間存在の理法としてとらえ,倫理に人間生活の全面をおおうような意味を与える和辻哲郎の倫理学の立場があり,他方たとえばマルクス主義の立場においては,倫理はもっぱらイデオロギー的な上部構造として,しかもその一部として把握される。倫理が人間生活の全面をおおう意味合いをもつとする包括的認識もたいせつではあるが,同時に,倫理は,芸術や美の問題,政治や法や経済の問題,科学や技術の問題,医療や宗教の問題,等々という人間生活の各領域に固有の諸問題とある意味では並列的な,その妥当領域が限局された問題でもある。したがってあまり倫理一辺倒の考え方に傾くことは,人間の心情や態度や生活が固陋(ころう)に陥り,創造性に欠ける結果になりがちであるという意味で,必ずしも妥当な行き方とはいえないであろう。
英語ethical,ドイツ語ethisch,フランス語éthiqueなどの言葉は,〈倫理学的〉という意味でもあれば,〈倫理的〉という意味でもある。この区別と類比的に倫理学史と倫理思想史とを区別することができる。倫理思想史とは,それぞれの時代や社会の倫理に関する--学とまではいかなくても--おのずからなる自覚や反省の結果生じてきた思想についての歴史的叙述であるが,ここでは西洋に特有の倫理学史についてのみ概説しておこう。
総じて古代から中世にかけての倫理学説においては,ひとはいかにして幸福を達成しうるかという問題がその中心問題を成していた。当時は,すべての人間はその本性によって幸福という究極目的の達成に向かうように生まれながら定められていると考えられていた。人間がそういう究極目的を達成するための最も善い生き方,ないしは行為の仕方は何かというのが,中世までの倫理学の中心問題であった。他方,近代以降の倫理学説の中心問題は実践的判断の問題である。つまり,いかに行動すべきかと問われる場合,この〈べき〉,すなわち義務とは何か,それはいかにして説明され根拠づけられ正当化されるのか,という問題である。中世までの観点と近代以降の観点とにみられるこういう対照にもかかわらず,倫理学の意味が両者でまったく変わってしまったわけではなく,古代ギリシア以来倫理学はある不変の意味を保持している。すなわち,ひとがなんらかの個人的な責任を負うたぐいの行為において,何が善であるか,またその根拠と原理は何かという点についての反省的研究という意味である。
そこで,総じて倫理学の第1の主題は,善とは何かという問題であり,そしてこの問題が,中世までの倫理学においては,ひとはいかにして幸福を達成しうるかという問題との関連において探究されたのである。幸福主義の倫理学は,その近代的様相においては,とりわけイギリスの社会的幸福主義ないしは功利主義の立場の倫理学として現れた。善悪の問題を純化していくと倫理的価値の問題になるが,現代の価値倫理学は倫理学の中心問題が価値,とりわけ倫理的価値の問題にあるとみるものであり,その代表者として特にM.シェーラーの名を挙げることができる。次いで倫理学の第2の主題は,近代以降に特に顕在化した義務の問題である。この問題を特に重視した人々の中で最も代表的なのは,人格主義の立場から定言命法の倫理学を樹立したカントである。最後に倫理学の第3の主題は徳の問題である。これは古代から近代にいたるまでの倫理学の長い歴史を通じてその一つの中心問題たるの地位を確保してきたが,現代のニヒリズム的状況の中では事情がかなり変わってきている。倫理学は慣習としてのエートスの意義の反省に始まり,徳としてのエートスの把握に終わるという理念的構造をもつが,現代においては徳としてのエートスを一義的に把握しがたいという事情があり,したがって現代倫理学は倫理学本来の理念的構造を完結させがたいというさだめを負うものなのである。
総じて学とは理論的かつ概念的な認識である。そして学の分類としては,最古のものでありながら現代にいたるまで一貫して有効性を保持してきたものに,いわゆる三分法がある。これは古アカデメイア学派のクセノクラテスに始まるといわれているが,それが明確に実現されたのはヘレニズム時代のストア学派においてのことである。そこでは学は自然学ta physika,倫理学ta ēthika,論理学ta logikaという三つに分類された。カントもこの分類の正しさを承認したうえで,自然学と倫理学との関係について,自然学は自然の必然的法則を取り扱うのに対して,倫理学は自由の法則(すなわち当為)を取り扱うというように両者を対照させている。この意味では倫理学は人間存在についてのある包括的・原理的な学である。だが自然と人間とは必ずしも相互排除的な概念とはかぎらない。自然の内なる人間,しかも人間本性というかたちで内に自然を蔵する人間,それが倫理学の対象である。この意味での人間は,外なる自然の側からいえば,自然の内面化においてあり,逆に内なる自然の側からいえば,自然の外面化においてある。そして,自然のそういう内面化と外面化は,実は一つの同じはたらき,すなわち人間の社会的・歴史的実践の両面にほかならない。エートスとは,人間のそういう社会的・歴史的な実践的存在性の最も基本的な形態にほかならず,そのかぎりで倫理学は基本的に〈エートスの学〉としての性格をもつのである。
次に倫理学と論理学との関係についていえば,すぐれて近代的な論理学は,数学的自然科学の論理学,すなわち数学的自然科学の認識論的基礎づけというかたちで,カントによって一応成就された。それに対し,論理学を明確に精神的・社会的な諸科学の論理学というかたちで形成した最初の者は《論理学体系》におけるJ.S.ミルである。だが,その種の観点をさらに徹底させて,論理学と倫理学との関連を確定し,倫理学を明確に精神科学の論理学として把握したのはH.コーエンである。彼の哲学体系において論理学(《純粋認識の論理学》)は数学的自然科学の論理学であり,倫理学(《純粋意志の倫理学》)は精神科学の論理学である。コーエンによれば,倫理学においても,それが学であるかぎり,論理学のカテゴリーが貫徹されるべきであるが,論理学と倫理学とではその思考の方向が異なる,すなわち,論理学においては自然という対象概念を構成することが問題であるのに対し,倫理学においては人倫的自己としての人間という概念を構成することが問題であるとされる。
自由と自己が倫理学の根本理念である。行為は人間の自己実現という意味を有するが,これは自然とのかかわり,他人とのかかわり,自己自身とのかかわりという,三つのかかわりのうちで行われる。そういうかかわりを可能にする根本条件が〈可能性としての自由〉であり,そしてこの意味での自由こそが真実の自己存在としての実存にほかならない。だが,その意味での自己とは何か。これがソクラテスを創始者とする倫理学の最も根源的な問いである。すなわち,〈汝自身を知れ〉という言葉は,一つの謎として,ソクラテス以来,それをめぐって倫理学的思索が展開されてきた最も重要な中核語である。全体としての存在の宿運と一体化した自己存在こそが創造の根源たりうるのであり,それでこそ真に創造的な自由の境地といえる。自己存在は結局一つの謎であり,無限に開かれている。それは限りなく尊いものであると同時に,恐るべき深淵でもある。自己存在をこういう一個の謎たらしめている存在の不思議さに対する謙虚な敬虔さを持することこそが肝要である。
執筆者:吉沢 伝三郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
世間で通用している道徳をそのまま受容するのではなく、それについて哲学的な反省を加え、どのような原理に従って生きるのが真に道徳的な生き方であるかを探究する学問。あるいは同じことだが、倫理学とは、人間はいかに生きるべきかを考え、人間らしく生きるためにはどのような生き方を選んだらよいかを探究する学である、ともいえよう。そうした意味では、ソクラテスの場合のように、倫理学はもともと哲学と一体であるが、アリストテレスによる理論学と実践学の区別は、近世以降、哲学内部における理論哲学と実践哲学の区別として定着し、今日では倫理学は実践哲学として、哲学の一部門とみなされるのが普通である。
[宇都宮芳明]
もっともこれとは別に、レビ・ブリュールやデュルケームのように、倫理学は習俗をも含めて道徳を社会的な一現象としてとらえ、その機能や構造を実証的方法によって考察する社会科学であるべきだとする見方もある。また倫理学は従来の規範倫理学のように、ある種の規範を設定したり根拠づけたりするのではなく、もっぱら「よい」とか「べき」といった道徳言語の意味や用法を価値中立的立場から分析し、それらの言語を含む文の論理的構造を明らかにすべきだといった、いわゆるメタ倫理学の見方もある。しかし道徳現象を他の現象から区別したり、道徳言語を他の言語から区別したりするためには、それに先だってすでに道徳とは何かが知られていなければならない。そうした意味で、倫理学の中心課題は、依然として道徳を道徳たらしめている原理の探究にあるといえるであろう。
[宇都宮芳明]
ところで、道徳の原理に関しても、現代の倫理学の内部でいくつかの異なった見方がある。
その一つは、道徳は人間固有の本性に根ざしており、したがっていつの時代にも変わらない普遍的な道徳が存在するとみる立場で、その代表としては功利主義の倫理があげられる。すなわち功利主義によると、人間は快を求め苦を避けるという本性をもつ。人間がこうした本性をもつ以上、道徳的によい行為とは、できるだけ多くの快を人々にもたらすか、あるいは人々からできるだけ多くの苦を取り除く行為である。いわゆる「最大多数の最大幸福」が説かれる所以(ゆえん)である。
これは、快を求めるという人間の自然的本性に道徳の基礎を置く点で、自然主義的倫理学といってよいが、他方第二の立場として、人間は歴史とともに変化する存在であり、したがって道徳も歴史とともに変化し、永遠不変な道徳は存在しないとみる立場がある。これは歴史的相対主義の立場であって、実証主義の倫理学や、これまでの道徳はいずれも階級道徳であり、階級の利益に奉仕するものだとするマルクス主義の倫理学は、この立場に属するとみてよいであろう。
そして第三に、個々の人間のあり方をあらかじめ規定しているような普遍的な人間本性は存在せず、したがって普遍的な道徳もまた存在しないとする実存主義の見方がある。たとえばサルトルによると、人間各自の実存は本質に先だつものとして自由であり、既成の価値にとらわれずに自由に自己を創造していく行為が道徳的に善である。普遍的な道徳法の存在を否定し、そのつどの状況に応じた決断を重視する状況倫理もまた、この立場にあるといえよう。
なお付け加えると、普遍的な道徳の存在を認める第一の見方はギリシア以来の伝統的な見方であり、道徳の歴史的相対性を説く第二の見方は近世の産物であり、個別的な実存の倫理を重視する第三の見方は現代に生じた見方である。しかし現代ではこの三つの見方がそれぞれなお有力な見方として鼎立(ていりつ)しているのが現状である。
[宇都宮芳明]
日本では、和辻哲郎(わつじてつろう)が、倫理学は「人の間」としての「人間」の学であるとして、独自な体系を樹立した。人間存在の根本構造は個(個人)と全(社会)の二重構造であり、それは全の否定によって個が成立し、個の否定によって全が全に還帰するという、二重の否定運動によって顕現する。道徳的善悪に関していえば、個が全を否定して全から背き出るのが悪であり、個が自らをふたたび否定して全に戻るのが善である。ここには二重構造といっても、個に対する全の優位が示されているが、しかしこうした和辻倫理学とは別に、人間を文字どおり「人の間」にあるものとしてとらえ、そうした視点から道徳の原理を探ることも可能であろう。道徳的善悪は、人間の人間に対する行為、自己の他人に対する行為のうちにもっとも明瞭(めいりょう)な形で現れる。とすれば、道徳の原理は人と人とをかけ渡す「間」の領域にあるとみることができる。それをかりに人「間」性とよべば、道徳の原理の解明にとって必要なのは、人間本性の解明ではなく、むしろこうした人「間」性の解明である、といえるであろう。
[宇都宮芳明]
『和辻哲郎著『倫理学』上下(1965・岩波書店)』▽『岩崎武雄著『倫理学』(1971・有斐閣)』▽『宇都宮芳明著『人間の間と倫理』(1980・以文社)』
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…デカルトは精神と物体とを独立する実体として分離しながら,人間においては心身結合をみとめたが,ゲーリンクスは両者の直接的相互作用を否定し,身体の刺激によって精神に感覚が生じたり,精神が意志によって身体を動かす場合も,真の作用者は神のみであって,神が身体の刺激または精神の意志を〈道具〉ないしは〈機会〉として感覚または身体の運動を生ぜしめるとした。彼はまた倫理学を重視して主著《倫理学》(1675)を書いたが,そこでも神が唯一の能動者であるこの世界において,人間は単なる〈傍観者〉にすぎないことが強調され,そのような人間が自己の無力を自覚して神の摂理に従う〈謙虚〉の徳が称揚されるとともに,自愛にもとづく幸福欲が厳しく退けられている。ほかに《真の形而上学》(1691)などの著書がある。…
…すなわち,道とは人倫を成立させる道理として,倫理とほぼ同義であり,それを体得している状態が徳であるが,道徳といえば,倫理とほぼ同義的に用いられながらも,徳という意味合いを強く含意する。道徳と倫理の両語とも,現今では近代ヨーロッパ語(たとえば英語のmorality,ethics,ドイツ語のMoralität,Sittlichkeit,Ethik,フランス語のmorale,éthique)の訳語としての意味が強いが,これらの語はたいていギリシア語のエトスethosないしはエートスēthos,あるいはラテン語のモレスmores(mosの複数形)に由来する。ēthosという語は,第1に,たいていは複数形のēthēで用いられて,住み慣れた場所,住い,故郷を意味し,第2に,同じくたいていは複数形で,集団の慣習や慣行を意味し,第3に,そういう慣習や慣行によって育成された個人の道徳意識,道徳的な心情や態度や性格,ないしは道徳性そのものを意味する。…
…モラルという日本語をも含め,総じて近代語においては,第3の意味に重点がある。 道徳に関する哲学は倫理学(英語ではethics,ドイツ語ではEthik),あるいは道徳学(ドイツ語ではMoral),道徳哲学(英語ではmoral philosophy)と呼ばれる。moral philosophyは近代イギリスでは元来は精神哲学というほどの広い意味のものであり,たとえばA.スミスがグラスゴー大学で講義したそれは,神学,倫理学(《道徳感情論》),法学,および経済学という四つの部分から成り立っていた。…
※「倫理学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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