日本歴史地名大系 「大谷本」の解説
大谷本(西大谷)
おおたにほんびよう(にしおおたに)
〔成立〕
親鸞は弘長二年(一二六二)に没し、
〔地の伝領と拡張〕
文永一一年(一二七四)禅念は所有の敷地を覚信尼に譲渡し(本願寺文書)、覚信尼は建治三年(一二七七)敷地、廟堂を門弟たちに寄進して門弟共有のものとし(専修寺文書)、覚信尼自らは廟堂護持にあたる留守職となった。のちに覚信尼はこの留守職を父を異にする二子覚恵、唯善のうち覚恵に譲る。覚恵は常陸国で困窮していた異父弟唯善をよんで同居し、唯善やその門弟が中心となって廟地を拡張した。永仁四年(一二九六)、澄海の弟子禅日房良海より買得した土地は、「大谷地壱処事、在自今小路末南 七観音大道之東顔祇薗林艮方、四至限東越中律師領 限西大道 限南大進法眼領 限北善信上人御影堂地 口伍丈奥同南寄東西拾三丈五尺 北寄東西拾丈尺」であり(同年七月一七日「良海家地売券案」本願寺文書)、のちに大谷南地といわれる。これにより廟地はほぼ二倍となったが、この地を私有しようとした唯善は門弟側と対立した。亀山・伏見両上皇の院宣や本所の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報