大谷本
(西大谷)
おおたにほんびよう(にしおおたに)
[現在地名]東山区五条橋東六丁目
真宗の開祖親鸞の廟所としてはじまる。本尊は阿弥陀如来。浄土真宗本願寺派に属し、俗に西大谷と称する。史料には「大谷廟堂」とよむ場合もある。五条坂北側にあり、廟所・拝殿(明著堂)・唐門・仏殿(本堂)・鐘楼・鼓楼・聴聞所・対面所・御成殿・無量寿殿・土蔵・諸講詰所がある。
〈京都・山城寺院神社大事典〉
〔成立〕
親鸞は弘長二年(一二六二)に没し、鳥辺野の北の大谷に納骨された。大谷は「栄花物語」に「祇園の東、大谷と申して広き野侍り」、「大谷本願寺通紀」に「在城州愛宕郡洛東東山西麓鳥部野北辺、今知恩院地是也」と記すように、現在の東大谷・円山公園・知恩院境内地一帯をさす。専修寺本「親鸞聖人伝絵」によると、親鸞の墳墓は一基の石塔を中心として柵をめぐらした簡素なものであった。親鸞の娘覚信尼や門弟たちはこの祖墳の改葬を行ったが、「親鸞聖人伝絵」は「文永九年壬申冬比、東山西麓鳥部野の北、大谷の墳慕(ママ)をあらためて、同麓よりなお西、吉水の北の辺に、遺骨を堀渡て、仏閣を立、影像を安す」と記している。この仏閣が「大谷廟堂」であり、本願寺の起源である。「吉水の北の辺」とは覚信尼の後夫小野宮禅念の私有地であり、現知恩院山内の崇泰院境内にあたる。禅念が買得した土地は「南伍丈二尺五寸 奥南北四丈五尺 奥東拾壱丈五尺」(「大谷北地手続目録」本願寺文書)、現坪で一四四坪余である。
〔地の伝領と拡張〕
文永一一年(一二七四)禅念は所有の敷地を覚信尼に譲渡し(本願寺文書)、覚信尼は建治三年(一二七七)敷地、廟堂を門弟たちに寄進して門弟共有のものとし(専修寺文書)、覚信尼自らは廟堂護持にあたる留守職となった。のちに覚信尼はこの留守職を父を異にする二子覚恵、唯善のうち覚恵に譲る。覚恵は常陸国で困窮していた異父弟唯善をよんで同居し、唯善やその門弟が中心となって廟地を拡張した。永仁四年(一二九六)、澄海の弟子禅日房良海より買得した土地は、「大谷地壱処事、在自今小路末南 七観音大道之東顔祇薗林艮方、四至限東越中律師領 限西大道 限南大進法眼領 限北善信上人御影堂地 口伍丈奥同南寄東西拾三丈五尺 北寄東西拾丈
尺」であり(同年七月一七日「良海家地売券案」本願寺文書)、のちに大谷南地といわれる。これにより廟地はほぼ二倍となったが、この地を私有しようとした唯善は門弟側と対立した。亀山・伏見両上皇の院宣や本所の青蓮院(現東山区)の裁決で唯善は追放されたが、紛糾中に唯善は親鸞の影像・遺骨などを奪取し廟堂の金物や石塔などを破却した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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