鎌倉時代の浄土真宗の尼僧。親鸞(しんらん)の末娘。母は恵信(えしん)尼。現存する覚信尼あての書状には王御前とある。久我通光(こがみちみつ)(1187―1248)に女房として仕え、兵衞督局(ひょうえのかみのつぼね)といった。日野広綱(ひのひろつな)の妾(しょう)となり、覚恵(かくえ)(1239―1307)を生み、広綱の死後、小野宮禅念(おののみやぜんねん)と再婚、唯善(ゆいぜん)(1266―1317)を生んだ。親鸞没後、関東在住の門弟により廟堂(みょうどう)が禅念所有の土地に建てられたが、のち覚信尼はその土地を譲られた。覚信尼は禅念の死後、これを廟堂に寄進し、廟堂の管理は門弟にかわって自分の子孫があたることを定めた。これが留守職(るすしき)といわれるもので、この職をめぐって覚信尼の死後、覚恵・覚如父子と唯善の間で争い(唯善事件)が起こった。
[石田瑞麿 2017年6月20日]
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…1262年(弘長2)親鸞が死ぬと,鳥辺野の北,大谷の地に墓がたてられたが,それは1基の墓標に柵をめぐらす簡素なものであった。72年(文永9)大谷の西,吉水の北にある末娘覚信尼の住地に堂を建てて遺骨を移し親鸞の影像を安置した。これを大谷廟堂と称する。…
…1262年(弘長2)親鸞が没すると東山大谷に簡素な墓所が設けられた。72年(文永9)親鸞の門弟や末娘覚信尼は,墓所の北,吉水の覚信尼住地に廟堂を建て親鸞影像を安置した。これを大谷廟堂と称し,覚信尼および彼女の子孫が留守職(るすしき)となりその管理に当たった。…
※「覚信尼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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