デジタル大辞泉
「覚信尼」の意味・読み・例文・類語
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かくしん‐に【覚信尼】
- 鎌倉中期の尼僧。親鸞の娘。母は恵信尼。日野広綱に嫁して覚慧を、小野宮禅念と再婚して唯善を産む。親鸞の没後、京都東山大谷に廟堂を建て、本願寺の基礎を築く。元仁元~弘安六年(一二二四‐八三)
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覚信尼
かくしんに
(1224―1283)
鎌倉時代の浄土真宗の尼僧。親鸞(しんらん)の末娘。母は恵信(えしん)尼。現存する覚信尼あての書状には王御前とある。久我通光(こがみちみつ)(1187―1248)に女房として仕え、兵衞督局(ひょうえのかみのつぼね)といった。日野広綱(ひのひろつな)の妾(しょう)となり、覚恵(かくえ)(1239―1307)を生み、広綱の死後、小野宮禅念(おののみやぜんねん)と再婚、唯善(ゆいぜん)(1266―1317)を生んだ。親鸞没後、関東在住の門弟により廟堂(みょうどう)が禅念所有の土地に建てられたが、のち覚信尼はその土地を譲られた。覚信尼は禅念の死後、これを廟堂に寄進し、廟堂の管理は門弟にかわって自分の子孫があたることを定めた。これが留守職(るすしき)といわれるもので、この職をめぐって覚信尼の死後、覚恵・覚如父子と唯善の間で争い(唯善事件)が起こった。
[石田瑞麿 2017年6月20日]
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覚信尼 (かくしんに)
生没年:1224-83(元仁1-弘安6)
浄土真宗の開祖親鸞の末娘,母は恵信尼。常陸で生まれる。11歳のころ東国から京都に移住。18歳のころ日野広綱の側室となり覚恵を生む。26歳のころ夫に死別し,父母のもとに帰る。30歳のころ母恵信尼は越後に帰り,覚信尼が親鸞の身辺に侍す。1262年(弘長2)39歳のとき父親鸞死去。その後,小野宮禅念と再婚し唯善を生む。72年(文永9)東国門弟たちの協力を得て,尼の居住地に親鸞の廟堂を建てる。これを大谷廟堂といい,のち本願寺と称す。77年(建治3)大谷の地を廟堂に寄進して門弟の共有とし,廟堂の守護(留守職)に尼の子孫をあて,本願寺の血統相続の基をひらく。
執筆者:千葉 乗隆
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覚信尼
没年:弘安6(1283)
生年:元仁1(1224)
鎌倉時代,親鸞と恵信尼の末娘。俗名は王御前。常陸国(茨城県)で生まれる。11歳のとき親鸞と共に帰京し,はじめ日野広綱の側室となって覚恵,光玉を生むが,広綱の死後親鸞と同居し,弘長2(1262)年親鸞の死と葬送,拾骨を取り仕切った。その後,小野宮禅念に嫁ぎ,唯善を生み,京都の吉水北辺の大谷に住む。覚信尼は文永9(1272)年,この地に親鸞の遺骨と影像を安置し,廟堂(影堂)とする。夫の禅念は同11年に敷地を覚信尼に譲って死没した。建治3(1277)年,これを親鸞の門弟に寄進し,所有権と引き替えに廟堂の留守職(管理権)を覚信尼および子孫に留保し,60歳のとき息子の覚恵に譲って間もなく没した。覚信尼建立の廟堂に発したのがのちの本願寺である。<参考文献>赤松俊秀「覚信尼について」(『鎌倉仏教の研究』),薗田香融「覚信尼の寄進」(『平安仏教の研究』)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
覚信尼 かくしんに
1224-1283 鎌倉時代の尼僧。
元仁(げんにん)元年生まれ。親鸞(しんらん)の娘。母は恵信尼。日野広綱にとついで覚恵,光玉を生む。広綱の死後,小野宮禅念と再婚,唯善(ゆいぜん)を生んだ。文永9年(1272)京都廟堂(大谷廟堂)をたて親鸞の影像を安置し,子孫が廟堂を管理するようにさだめた。廟堂はのち本願寺と称された。弘安(こうあん)6年死去。60歳。常陸(ひたち)(茨城県)出身。俗名は王御前。
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覚信尼
かくしんに
[生]元仁1(1224)
[没]弘安6(1283)? 京都
鎌倉時代の尼僧。親鸞の末女。初め日野広綱にとついで覚恵を産み,死別後小野宮禅念と再婚して唯善を産む。親鸞が亡くなると,文永9 (1272) 年冬,大谷の親鸞の墓を吉水の北に移し,遺骨や像を安置した。そしてこれを覚信尼の子孫が守護していくことに定めたのが現在の本願寺の始りである。
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世界大百科事典(旧版)内の覚信尼の言及
【大谷本廟】より
…1262年(弘長2)親鸞が死ぬと,鳥辺野の北,大谷の地に墓がたてられたが,それは1基の墓標に柵をめぐらす簡素なものであった。72年(文永9)大谷の西,吉水の北にある末娘覚信尼の住地に堂を建てて遺骨を移し親鸞の影像を安置した。これを大谷廟堂と称する。…
【本願寺】より
…1262年(弘長2)親鸞が没すると東山大谷に簡素な墓所が設けられた。72年(文永9)親鸞の門弟や末娘[覚信尼]は,墓所の北,吉水の覚信尼住地に廟堂を建て親鸞影像を安置した。これを大谷廟堂と称し,覚信尼および彼女の子孫が留守職(るすしき)となりその管理に当たった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」