コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

覚信尼 かくしんに

7件 の用語解説(覚信尼の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

覚信尼
かくしんに

[生]元仁1(1224)
[没]弘安6(1283)? 京都
鎌倉時代の尼僧。親鸞の末女。初め日野広綱にとついで覚恵を産み,死別後小野宮禅念と再婚して唯善を産む。親鸞が亡くなると,文永9 (1272) 年冬,大谷の親鸞の墓を吉水の北に移し,遺骨や像を安置した。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

デジタル大辞泉の解説

かくしん‐に【覚信尼】

[1224~1283]鎌倉中期の浄土真宗の尼僧。親鸞(しんらん)の娘。母は恵信尼。父親鸞の没後、京都大谷の地に廟堂を建て、本願寺の基礎を築いた。

出典|小学館
デジタル大辞泉について | 情報 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

覚信尼 かくしんに

1224-1283 鎌倉時代の尼僧。
元仁(げんにん)元年生まれ。親鸞(しんらん)の娘。母は恵信尼。日野広綱にとついで覚恵,光玉を生む。広綱の死後,小野宮禅念と再婚,唯善(ゆいぜん)を生んだ。文永9年(1272)京都廟堂(大谷廟堂)をたて親鸞の影像を安置し,子孫が廟堂を管理するようにさだめた。廟堂はのち本願寺と称された。弘安(こうあん)6年死去。60歳。常陸(ひたち)(茨城県)出身。俗名は王御前。

出典|講談社
デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

覚信尼

没年:弘安6(1283)
生年:元仁1(1224)
鎌倉時代,親鸞と恵信尼の末娘。俗名は王御前。常陸国(茨城県)で生まれる。11歳のとき親鸞と共に帰京し,はじめ日野広綱の側室となって覚恵,光玉を生むが,広綱の死後親鸞と同居し,弘長2(1262)年親鸞の死と葬送,拾骨を取り仕切った。その後,小野宮禅念に嫁ぎ,唯善を生み,京都の吉水北辺の大谷に住む。覚信尼は文永9(1272)年,この地に親鸞の遺骨と影像を安置し,廟堂(影堂)とする。夫の禅念は同11年に敷地を覚信尼に譲って死没した。建治3(1277)年,これを親鸞の門弟に寄進し,所有権と引き替えに廟堂の留守職(管理権)を覚信尼および子孫に留保し,60歳のとき息子の覚恵に譲って間もなく没した。覚信尼建立の廟堂に発したのがのちの本願寺である。<参考文献>赤松俊秀「覚信尼について」(『鎌倉仏教の研究』),薗田香融「覚信尼の寄進」(『平安仏教の研究』)

(西口順子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
朝日日本歴史人物事典について | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

かくしんに【覚信尼】

1224‐83(元仁1‐弘安6)
浄土真宗の開祖親鸞の末娘,母は恵信尼。常陸で生まれる。11歳のころ東国から京都に移住。18歳のころ日野広綱の側室となり覚恵を生む。26歳のころ夫に死別し,父母のもとに帰る。30歳のころ母恵信尼は越後に帰り,覚信尼が親鸞の身辺に侍す。1262年(弘長2)39歳のとき父親鸞死去。その後,小野宮禅念と再婚し唯善を生む。72年(文永9)東国門弟たちの協力を得て,尼の居住地に親鸞の廟堂を建てる。これを大谷廟堂といい,のち本願寺と称す。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
世界大百科事典 第2版について | 情報

大辞林 第三版の解説

かくしんに【覚信尼】

1224~1283) 親鸞の女むすめ。母は恵信尼。親鸞の死後、大谷に廟を建て、以後その子孫が廟を守ることとし、のちの本願寺教団の出発点となった。

出典|三省堂
大辞林 第三版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

覚信尼
かくしんに
(1224―1283)

鎌倉時代の浄土真宗の尼僧。親鸞(しんらん)の末娘。母は恵信(えしん)尼。現存する覚信尼あての書状には王御前とある。久我通光(こがみちみつ)に女房として仕え、兵衞督局(ひょうえのかみのつぼね)といった。日野広綱(ひのひろつな)の妾(しょう)となり、覚恵(かくえ)を生み、広綱の死後、小野宮禅念(おののみやぜんねん)と再婚、唯善(ゆいぜん)を生んだ。親鸞没後、関東在住の門弟により廟堂(みょうどう)が禅念所有の土地に建てられたが、のち覚信尼はその土地を譲られた。覚信尼は禅念の死後、これを廟堂に寄進し、廟堂の管理は門弟にかわって自分の子孫があたることを定めた。これが留守職(るすしき)といわれるもので、この職をめぐって覚信尼の死後、覚恵・覚如父子と唯善の間で争い(唯善事件)が起こった。[石田瑞麿]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の覚信尼の言及

【大谷本廟】より

…1262年(弘長2)親鸞が死ぬと,鳥辺野の北,大谷の地に墓がたてられたが,それは1基の墓標に柵をめぐらす簡素なものであった。72年(文永9)大谷の西,吉水の北にある末娘覚信尼の住地に堂を建てて遺骨を移し親鸞の影像を安置した。これを大谷廟堂と称する。…

【本願寺】より

…1262年(弘長2)親鸞が没すると東山大谷に簡素な墓所が設けられた。72年(文永9)親鸞の門弟や末娘覚信尼は,墓所の北,吉水の覚信尼住地に廟堂を建て親鸞影像を安置した。これを大谷廟堂と称し,覚信尼および彼女の子孫が留守職(るすしき)となりその管理に当たった。…

※「覚信尼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
世界大百科事典 第2版について | 情報

覚信尼の関連キーワード元仁ラムセス2世民主党の党員・サポーター詠歌大概オゴタイハン国覚信尼元仁ジュチ貞応ヌクヒバ島

今日のキーワード

百条委員会

地方自治体が議決により設置する特別委員会の一つ。名称は「地方自治法第100条」に基づく。百条委員会は、地方公共団体の事務に関する調査を行い、関係者への聞き取りや記録の提出を請求、拒否した者には罰則が科...

続きを読む

コトバンク for iPhone

覚信尼の関連情報