大阪紡績会社 (おおさかぼうせきかいしゃ)
日本最初の大規模紡績会社で,東洋紡績株式会社の前身。綿製品輸入防遏(ぼうあつ)を企図する渋沢栄一の主唱により,華族を中心に政商,綿関係商人を加えて1882年5月に創立された(資本金25万円)。翌年,イギリス帰りの山辺丈夫を工務支配人とし,蒸気機関による1万500錘,労働者300人弱という当時最大の規模で開業し,電灯を設備しての昼夜二交替制のフル操業で好成績をあげ,80年代後半の紡績ブームを呼び起こした。90年大阪織布を買収して紡績兼営織布会社となり,1906年には三重紡績,金巾製織と三栄綿布組合を結成して三井物産と提携し朝鮮の粗布市場を独占し,同年結成の満州(中国東北)向けの日本綿布輸出組合にも参加した。同年金巾製織,07年白石紡績所を買収・合併したが,14年6月,ともに渋沢との関係が深く製品面でも類似していた三重紡績と合併し,東洋紡績となった。合併時,資本金500万円,紡績機15万8976錘で全国5位,織機4796台で全国3位であった。
執筆者:高村 直助
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「大阪紡績会社」の意味・わかりやすい解説
大阪紡績会社【おおさかぼうせきかいしゃ】
渋沢栄一らの企画により,1882年藤田伝三郎を頭取として設立された日本最初の蒸気力紡績会社。当時の紡績業は政府の保護下にあったが,大阪紡績は旧公卿,藩主などの純民間資本で設立された。英国の技術を身に着けた山辺丈夫の経営により,設立当初から1万500錘を備え,大規模設備と昼夜操業をてことして急速に発展した。1890年大阪織布,1907年白石紡績所を買収・合併,さらに1914年,政府保護下の2000錘紡として発足した三重紡績と合併,東洋紡績となり,紡績業界の名門として現在に至る(通称名は東洋紡)。
→関連項目綿業
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大阪紡績会社
おおさかぼうせきがいしゃ
1882年,渋沢栄一ら民間実業家が華族層などからの大量出資を得て大阪に設立した紡績会社
イギリスの技術を採用,蒸気を利用し,1万500錘 (すい) という当時最大の近代的紡績工場として発足。関西紡績業発達の基礎となる。1914年三重紡績と合併,東洋紡績会社となった。
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世界大百科事典(旧版)内の大阪紡績会社の言及
【産業革命】より
…
[紡績業]
紡績業は繊維工業の中でも機械制大工業としてもっとも顕著な発達を遂げた。政府の助成をうけて発足した各地の2000錘紡績がいずれも不振を極めていたときに,渋沢栄一の指導下に1882年に設立された[大阪紡績会社]は,1万錘規模の機械を昼夜二交替制で稼働させて高利益をあげたが,それに刺激されて,1886‐89年に鐘淵紡績,三重紡績,尼崎紡績,摂津紡績など,東京,大阪周辺でつぎつぎと大紡績工場が設立された。大紡績は,当時輸入綿糸の中心であったインド綿糸および在来手紡糸,ガラ紡糸との国内市場での競争に打ち勝って急速に発展した。…
【繊維工業】より
…繊維原料または繊維を加工して繊維製品を生産する工業。具体的には[生糸]を製造する製糸業,綿,化学繊維,羊毛,絹,麻などの糸を製造する紡績業,撚糸(よりいと)を製造する撚糸(ねんし)製造業,各繊維の糸から織物を製造する織物業([織物工業]),ニット製品を製造するニット製造業,糸,織物などの染色,漂白などを行う染色整理業,綱や漁網を製造する綱・網製造業,レースや組紐(くみひも)などを製造するレース・繊維雑品製造業などがある。…
【紡績業】より
…その結果,80年代半ばまでに20ヵ所近い小紡績が開業したが,大部分は経営不振で,むしろ臥雲辰致(がうんたつち)(1842‐1900)が1876年に発明した〈[ガラ紡]〉が一時的に広まった。この間,渋沢栄一が主唱し,華族,政商,都市商人を株主として,82年に設立,83年に操業開始した[大阪紡績会社](現,東洋紡績)は蒸気力による1万500錘の規模をもち,2交替制昼夜業を実施して好成績をあげた。これに刺激されて,東京綿商社(1886,現,鐘紡),和歌山紡績(1887,現,大和紡績),尼崎紡績(1889,現,ユニチカ)など大阪を中心に明治20年ごろから高配当を期待する都市商人を主体に,洋行帰りの技師を雇い入れて1万錘規模の紡績会社が次々に誕生し,機械製綿糸生産は急増して90年には早くも輸入綿糸を上回った。…
※「大阪紡績会社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」