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山辺丈夫 やまべたけお

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

山辺丈夫
やまべたけお

[生]嘉永4(1851).12.8. 津和野
[没]1920.5.14. 大阪
実業家。津和野藩士の家に生れ,上京して福沢諭吉らの教えを受けた。 1877年イギリスに留学,ロンドン大学で経済学,機械工学を修め紡績工業を研究して,3年後帰国。渋沢栄一らとともに大阪紡績株式会社を創設し,その工場建設を行なった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

山辺丈夫 やまのべ-たけお

1851-1920 明治-大正時代の実業家。
嘉永(かえい)4年12月8日生まれ。明治10年もと石見(いわみ)(島根県)津和野藩主の養子亀井茲明(これあき)の渡英に同行,ロンドン大にまなぶ。渋沢栄一の依頼で紡績業を研究し,帰国後大阪紡績の創立にかかわる。31年同社社長。大正3年合併により東洋紡績初代社長。大正9年5月14日死去。70歳。石見出身。本姓は清水。

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朝日日本歴史人物事典の解説

山辺丈夫

没年:大正9.5.14(1920)
生年:嘉永4.12.8(1851.12.30)
明治大正期の技術者,実業家。石見国(島根県)鹿足郡津和野町に津和野藩士清水格亮と佐渡子の次男として生まれる。安政1(1854)年津和野藩士山辺善蔵の養子となる。幼少より英才の誉れが高く慶応1(1865)年藩校養老館へ入校。幕末維新の数年間官軍に徴兵。明治3(1870)年以降東京,横浜で福羽美静,宣教師J.H.バラ,西周らに,また大阪慶応義塾分校に学び,大阪では小学校教員も勤務。8年より旧藩主の養嗣子亀井茲明に英語を教授し,10年茲明に随行し渡英。ロンドン大学に入学し,ジェボンズらから経済学を学ぶ。日本で1万錘規模の紡績会社設立をめざす渋沢栄一の要請を受けて紡績技術を習得するため12年3月キングス・カレッジに移り機械工学の勉強を開始。同年9月よりブラックバーン市の紡績工場で紡績業の実習。13年7月茲明と共に帰国した。 以後数年間,動力の調査,紡機の選定と購入,技術者の指導など技術関連で新紡績会社設立に尽力。大阪紡績会社創立の翌16年工務支配人。20年大阪織布会社創立(1890年大阪紡績に吸収)。以後大阪紡績において28年取締役,29年専務取締役,31年社長に就任。大正3(1914)年大阪紡績が三重紡績と合併して東洋紡績が成立したのちも5年まで同社社長。大日本紡績聯合会委員長,大阪商業会議所特別委員も歴任。同郷の森鴎外と交流があり,大阪阿倍野に立てられた山辺の碑文は鴎外によって書かれたが,碑が公開された大正12年には鴎外も死去していた。<参考文献>宇野米吉編『山辺丈夫君小伝』,石川安次郎編『孤山の片影』

(阿部武司)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

やまべたけお【山辺丈夫】

1851‐1920(嘉永4‐大正9)
明治・大正期の実業家。日本の近代的綿糸紡績業の移植,発展に貢献した。石見国(島根県)津和野に生まれる。父は津和野藩士清水格亮で,のち同藩士山辺善蔵の養子となる。1865年(慶応1)藩校養老館に入学し国学を学ぶ。70年(明治3)3月東京へ出,福羽美静主宰の培達義塾で国学を,さらに中村敬宇,西周について洋学も学ぶ。73年慶応義塾大阪学校に学んだが,翌年ふたたび東京に戻り,中村敬宇の同人社や福沢諭吉の慶応義塾で英語を教えた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

山辺丈夫
やまのべたけお
(1851―1920)

日本の綿糸紡績業の移植・発展に貢献した実業家。石見国(いわみのくに)(島根県)津和野藩士清水格亮の家に生まれ、のち山辺善蔵の養子となる。1865年(慶応1)藩校養老館に入学し国学を学ぶ。1870年(明治3)上京、福羽美静(ふくばびせい)主宰の培達義塾で国学を、さらに中村敬宇、西周(にしあまね)について洋学も学ぶ。1873年慶応義塾大阪学校に学んだが、ふたたび上京して中村敬宇の同人社や福沢諭吉(ふくざわゆきち)の慶応義塾で英語を教えた。1877年旧藩主の養子亀井茲明の教育係としてともに渡英、ロンドン大学で最初保険学を学ぶ。1879年、当時第一国立銀行頭取の渋沢栄一の懇請を受けて紡績業の研究に転じ、苦心してイギリス・ランカシャー綿業の技術を修得、紡績機械も発注して1880年に帰国した。大阪紡績の創立と工場建設に参画、のち工務支配人、専務取締役を経て1898年大阪紡績社長となる。1914年(大正3)大阪紡、三重紡の合併で東洋紡績が創立されると引き続き初代社長として、また紡績連合会委員長としても活躍した。[加藤幸三郎]

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世界大百科事典内の山辺丈夫の言及

【大阪紡績会社】より

…綿製品輸入防遏(ぼうあつ)を企図する渋沢栄一の主唱により,華族を中心に政商,綿関係商人を加えて1882年5月に創立された(資本金25万円)。翌年,イギリス帰りの山辺丈夫を工務支配人とし,蒸気機関による1万500錘,労働者300人弱という当時最大の規模で開業し,電灯を設備しての昼夜二交替制のフル操業で好成績をあげ,80年代後半の紡績ブームを呼び起こした。90年大阪織布を買収して紡績兼営織布会社となり,1906年には三重紡績,金巾製織と三栄綿布組合を結成して三井物産と提携し朝鮮の粗布市場を独占し,同年結成の満州(中国東北)向けの日本綿布輸出組合にも参加した。…

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