大須村(読み)おおすむら

日本歴史地名大系 「大須村」の解説

大須村
おおすむら

[現在地名]羽島市桑原町大須くわばらちようおおす

八神やがみ村・午南うまみなみ新田の西に位置する桑原輪中内の村。中世には長岡ながおか庄河東西方にしがた郷に含まれ、当地には中島なかしま観音堂(のち真福寺)北野天満宮などがあった。これらの所在地は、真福しんぷく(江戸初期に名古屋に移転し、現在は宝生院と号する)に伝来する南北朝期の寄進状には長岡庄河東西方郷・長岡庄河東(庄)とあるが、暦応四年(一三四一)一〇月二五日の土岐頼遠禁制(宝生院文書)には「大須庄内真福寺徳林寺」とある。徳林とくりん寺の当時の所在地は現海津かいづ平田ひらた幡長はたおさ宝生ほうじよう院蔵の聖経のなかに南北朝期に徳林寺で書写されたものが多くあり、暦応元年以前の奥書には「長岡庄河東徳林寺」「長岡庄寺嶋徳林寺」などと記されているが、同二年の「秘蔵宝鑰聞書」奥書には「中嶋郡大須庄徳林寺」とある。これをもって長岡庄と大須庄は異名同庄とする説があるが、長岡庄関係史料からみてこの説は成立しがたい。


大須村
おおずむら

[現在地名]鳴門市北灘町大須きたなだちようおおず

折野おりの村の西にあり、北灘八ヵ村のうち。北は播磨灘に面し、西はごの浦と讃岐国大内おおち坂本さかもと(現香川県引田町)。中央部を小さな大須川が北流して播磨灘に注ぎ、両岸にわずかな平地が開ける。東から海岸部を通って西に北灘道が通り、大須谷をさかのぼって南の大坂おおさか(現板野町)に入る道もあった。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「大つ」とみえる。正保国絵図には大津村とみえ、高一〇石余、新田とある。寛文四年(一六六四)の在々古田出目并新田高帳でも新田として大津村があげられ、枝村として大碁おおごの浦が記される。年代不詳の阿波国郡村付(岩村家文書)には大須村は板野いたの郡新村二四ヵ村の一にあげられている。


大須村
おおずむら

[現在地名]真野町大須・大小だいしよう

三貫目さんがんめ(大須川)を境として北東背合せなごう村。海辺に沿って通ずる小木おぎ街道(現国道三五〇号)も三貫目沢から大須鼻の段丘上に上り、現羽茂はもち町までの間は段丘縁に沿う。集落は段丘上に点在し、通称東大須と西大須に分れる。元禄七年(一六九四)検地帳(大須区有)では田五町六反余・畑一〇町余。屋敷持は二四筆で地字松原・中村・高野・志つかまなどにある。田地に地字大工だいく町の地名があるが、近世に稼行された大須鉱山の金掘大工の居住地とみられ、三貫目沢などに坑道跡が残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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