近世,京都洛中で最大の火災。1788年(天明8)正月晦日未明,鴨川東岸の宮川町団栗辻子(どんぐりのずし)から出火し,南へ五条通りまで延焼,その間鴨川西岸に飛火し,強風にあおられて洛中に燃え広がった。2月2日未明(一説に朔日夕刻)の鎮火までに,東は河原町・木屋町,北は上御霊社・鞍馬口通り・今宮御旅所北辺,西は智恵光院通り・大宮通り,南は東西本願寺北辺に及び,洛中町場のほとんどが焼亡した。焼失した町数は1424町余,3万6797軒,6万5340世帯,寺201,神社37という(《古久保家文書》)。死者は150人とも1800人ともいわれる。禁裏,仙洞御所,公家屋敷,二条城,所司代屋敷,東西両町奉行所なども類焼した。幕府はおりから米穀を買い占めたとして闕所(けつしよ)になった近江屋忠蔵の2万2000両のうち2万両を類焼町に配分して貸し付け,月3厘の利息で籾を備蓄したのが洛中囲米(かこいまい)の初めという。
大火は大商人を含む京都商業に大きな打撃を与えた。市中の復興は2月中旬より開始され,3月には本格化したが,普請用材の流入制限など一連の物価統制がなされたほか,諸会所,株仲間も一時停止するなど生業の復活政策が試みられた。旧来の仲間組織が復旧したのは1800年(寛政12)ごろという。また禁裏の〈御造営(復旧)〉問題をめぐって〈朝廷復古〉の声が高まり,朝幕関係が一時緊張した。町々では〈京焼け手まり唄〉が歌われ,周辺に流行した。
執筆者:富井 康夫
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