江戸時代の商人,手工業者たちによる特権的な結合組織。幕府や諸藩が流通統制や警察的取締りを行うため,あるいは領主層の御用を果たさせるためなどの目的で,上から株仲間を設定する〈御免株〉と,下からの願によって株仲間を認可する〈願株〉とがある。
願株の成立以前に,都市においては各種商人,手工業者の私的な仲間が結成されていた。町内に同職種の者が集住する場合には町単位に仲間を結んだり,同じ地方からの出店どうしが仲間となることもあったが,多くの場合,商人は同種類の商品を扱う問屋・仲買層が,手工業者は同職種の者が,数人ないし数十人を単位に仲間を形成した。仲間は行司や年番,年寄などの役員を互いに務め,定期,臨時の寄合を開き,諸種の申合せを行った。仲間規約を定め,加入者は仲間一同の承認により成員となるのが一般的である。こうした私的な結合に対し,幕府は近世初期においては否定的な姿勢を示した。17世紀前半に京都,大坂において朱座,銀座以外の座を禁止しているのは,中世的な性格の組織に対するものといえるが,近世的な仲間も取締りの対象とみなすことが多かった。1657年(明暦3)に江戸で大火があった後,幕府は職人の賃金を公定するなどの措置をとったが,さらに小売商,問屋,職人の仲間に対して触(ふれ)を発している。それによると,商人仲間が新規加入者に多額の出費を求めたり,仲間の申合せで〈しめ売り〉と呼ばれるような,販売制限行為をすること,あるいは町内の空店を借りる者に対して仲間が干渉することなどを禁じ,さらに職人仲間が会所を定めて寄合を開き,高い手間賃を申し合わせることに対して警告を発している。94年(元禄7)には,大坂からの下り商品を扱う江戸の問屋仲間の連合組織である十組(とくみ)問屋仲間が成立し,大坂と江戸を結ぶ海運に関して大きな発言権を持つようになった。
幕府は1721年(享保6)に奢侈禁止を徹底させるため,江戸の各種商人,手工業者に仲間を結ばせた。さらに同年から24年にかけて,生活必需品を主として問屋を中心とする仲間結成令を出している。これは米価が安いにもかかわらず,他の諸物価がこれにともなわないという,領主層にとって不利な状況を打開するため,物価対策に問屋仲間を利用する必要が生じたからであった。各仲間は扱い商品別に組織され,仲間帳面を幕府に提出し,公的なものとして認可された。このときの仲間は,それまでの私仲間とは関係なく,問屋ないしそれに類似した商いをしているとみなされた者を網羅するという趣旨で結成されたが,実際にはそれまであった仲間を考慮して編成された。株数の固定や冥加金(みようがきん)上納の義務はなかったが,諸商品の入津量や地方への移出高,あるいは価格についての報告書を提出するなど,幕府の流通統制に関係した。
18世紀後半になると,商品生産の進展により,それまでの流通経路によらぬ売買がさかんとなったことから,問屋や仲買層は公的権力により流通に関する特権の保証を求めるようになる。とくに先進地畿内を背景とし,全国的な商品流通の重要な環である大坂の問屋層は,これまでの地位を維持するために冥加金を上納して,株仲間として認可されることを望んだ。願株の増大は田沼政権期の特徴の一つであったともいえる。株仲間化は都市だけでなく,農村にも及んだ。灯油は菜種や綿実を搾って作られたが,幕府は江戸への灯油供給のため,大坂やその周辺地域での絞り油屋に特権を与え,いわゆる在株を設定している。19世紀に入ると,江戸の問屋層も従来の独占的な地位が揺らぎ,権力による保証を求めるようになる。1813年(文化10)には,十組をはじめとする菱垣(ひがき)廻船積問屋仲間65組が,毎年1万0200両の冥加金を上納し,株仲間として公的に認められた。株数は1995株に限定され,以後の新規加入は認められず,廃業者が出たときはその株を仲間内で預かり,組内で適当な者をみたてて譲り渡すという,きわめて特権的,閉鎖的な株仲間であった。以後,問屋を通さぬ売買に対しては,抜荷(ぬけに),越荷として摘発したり,生産地,集荷地の商人に対し,仲間外の者との取引をしないよう強制するなど,権力を背景に問屋による流通独占を主張した。これに対し,生産者や在郷商人,江戸市内の中小問屋・小売商の抵抗があり,訴訟が頻発した。大坂においても,菜種,繰綿などの流通をめぐり,畿内農村と都市問屋が対立し,23年(文政6)には摂津・河内1007ヵ村が訴訟するなど,国訴(こくそ)と呼ばれるほどの広汎な動きをみせた。
1841年(天保12)に幕府は天保改革の一環として,株仲間解散令を発した。江戸菱垣廻船積問屋をはじめとし,すべて問屋,仲間,組合などと唱えることをいっさい禁止したのである。冥加金上納は廃止となり,諸商品の素人直売買は勝手次第とされた。ただし,当初は江戸を対象として出された触のように受け取られたため,翌年には大坂,京都にも同趣旨の仲間解散令を徹底させた。幕府はこの措置により,流通の円滑,拡大とそれにともなう諸物価の低下を図ったのである。寛政改革のときには問屋仲間を通じて物価引下げを強要したのに対し,天保期においては仲間を解散したうえで町の組織を通じ,個々の問屋に商品の値下げを命じた。厳しい奢侈禁止策の影響もあり,問屋層の営業不振は著しく,仲間解散に対する批判がたかまった。
51年(嘉永4)に,幕府は江戸町奉行や遠国奉行,江戸町年寄や町名主への諮問を重ねた結果,問屋仲間再興令を発した。これは解散前の株仲間をそのまま復活するのではなく,現状に応じて再興を認めるという趣旨のもので,冥加金を上納させることなく,株札の下付や株数の固定は行わないとした。旧問屋層は解散前の仲間成員による古組を復活させることを望んだが,幕府は中小問屋も株仲間に吸収することを図った。そのため,仲間加入希望者の仕入高や売上額などを調査し,一定額以上を示す者を元組,古組に編入させ,それ以下の者を仮組,新組に組織した。なお,解散前に株仲間として認可されていた商種であっても,問屋に相当しないとされたものは,再興が許されなかった。江戸,大坂,京都などの都市でこうした政策が進められるにともない,商品生産地においては都市問屋に出荷する者を買次として仲間を結ばせ,在地で生産者から買い集めても都市問屋と取引しない者は,仲買として格付けし,生産者-仲買-買次-問屋という旧来の仕入機構を再編強化する方策をとった。先進地においては18世紀にすでに成立していた仕入機構を,遅れて商品生産を展開した地域にも拡大し,崩れつつあった幕藩制的な流通関係を再構築しようとしたもので,都市,地方ともに株仲間の枠を拡大したのである。
これに対して,生産者や在郷商人たちは自由な取引のできることを望み,大坂では繰綿の売買をめぐって,1855年(安政2)に摂津,河内の村々農民による国訴が起こっている。綿屋仲間以外の者による直売買,直積を禁止するという触が,問屋仲間再興を機に出されたため,文政以来農民が獲得していた売買の自由が阻害されたからであった。訴願の結果,村々の要求は達成され,都市問屋による流通独占ははばまれた。もはや幕藩権力によって株仲間の特権を保証することは困難となっていたのである。補強策として,仲間の再編を進める方針がとられ,57年には大坂の問屋仲間は古組と仮組を合併することになり,江戸においても幕末期に仮組から古組に移る者が続出した。安政の開港以来,貿易による商品流通の新たな展開は,これら拡大した株仲間によっても掌握困難な状況をひき起こし,横浜では仲間外商人の活躍が著しかった。明治新政府は68年(明治1)に〈商法大意〉を発し,株仲間の人数増減は自由であること,冥加金,上納金の徴収は行わないことを示し,特権的な性格を持つ株仲間に対しては否定的であり,幕藩制的な商品流通に照応した株仲間は基盤を失った。
執筆者:林 玲子
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江戸時代に商工業者が結成した独占的な同業組合。
[村井益男]
江戸幕府は、当初は前代の楽座(らくざ)政策を受け継ぎ、金・銀座や朱座、盗賊取締りと関係の深い質屋・古着屋・古道具屋などの仲間を除いて、座や仲間の申合せを禁じた。しかし実際には仲間が組織されていたことは1648年(慶安1)、57年(明暦3)の江戸町触(まちぶれ)や十組(とくみ)問屋仲間の結成の事情などによって明らかであり、幕府もこれを黙認していた。すなわち「内分の仲間」である。享保(きょうほう)の改革の過程において、幕府は従来の方針を転換し、商工業者に仲間を結成させ、これを公認してその営業の独占を認めることにし、ここに株仲間が成立した。1721年(享保6)、26年の株仲間結成令は、このような株仲間の組織を通じて、奢侈(しゃし)品禁止令の励行、物価の引下げを期待したものである。その後、明和(めいわ)・安永(あんえい)・天明(てんめい)期(1764~89)のいわゆる田沼時代に広範囲な株仲間の結成がみられた。これは、当時畿内(きない)を中心に急激に発展しつつあった商品生産の拡大、商品流通の活発化を、商人仲間を通じて統制すると同時に、株仲間からの冥加(みょうが)金徴収による幕府収入の増加をねらったものであった。
[村井益男]
株仲間の構成員数は限定され、仲間帳に記載された。新規の加入は困難で、売買、譲渡などで株を取得した者は、一定の手続を経て加入が許された。仲間には行事、年寄、肝煎(きもいり)などとよばれる役員が置かれ、月番、年番など交代制で仲間内の事務処理にあたった。
株仲間のもっとも重要な機能は、仲間以外の商人の同種営業を禁ずる独占機能で、これを侵害する者は官に訴えた。この営業独占を保障される代償として冥加金、運上(うんじょう)金などを上納した。仲間内では競争が禁ぜられ、そのため商品価格の協定、利潤(口銭・職人の場合は手間賃)の公定なども行われた。信用保持のため商品検査、度量衡の一定、包装の協定なども行われた。
[村井益男]
株仲間は、江戸時代の商業機構として大きな役割を果たしたが、商品流通の増大につれて、その独占機能が円滑な流通を阻害するとみられるようになり、1841年(天保12)天保(てんぽう)の改革において解散を命じられた。しかしこの結果、商人の秩序が乱れ、物価も下がらなかったので、1851年(嘉永4)再興令が発せられ復活したが、独占権は大幅に制限された。明治維新後もしばらく存続したが、1871、72年(明治4、5)ごろには各地で廃止され、営業自由となった。これに伴う取引上の混乱も生じたが、これらは新しい同業組合を結成して乗り越えた。
[村井益男]
『宮本又次著『株仲間の研究』(1938・有斐閣)』
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江戸時代,幕府や藩から株札の交付を認められ,営業権・独占権を保証された同業・同職の共同組織。領主の政策によって結成を命じられた御免株と,仲間からの出願によって株立てを認められた願株があり,冥加金(みょうがきん)の上納や仲間名前帳の提出が義務づけられていた。近世初期から株仲間化されていたのは,貿易統制や警察的取締りを目的とした御免株だけであった。18世紀になって,江戸では幕府が享保期に,奢侈禁止や物価引下げのため諸職人や諸問屋に仲間を結成させた。またおもに仲間の側からの出願によって,大坂と京都では明和・安永期に,江戸では文化年間に多くの願株が成立した。天保の改革で株仲間は解散を命じられたが,1851年(嘉永4)に再興令が出され,株数は増加した。72年(明治5)明治新政府によって廃止された。
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[農村における加工業の発展]
小藩の城下町や大藩が町立てを免許した地方都市のなかには,周辺農村の六斎市を吸収したものもあり,遠隔地から搬入される商品については市(いち)形式の取引を初期の主要な取引形態とするものもあったことは先に述べた。しかし入荷量が増大し,都市人口とくに商人の増大する間に,町筋や舟運の荷揚場別に取扱商品を特定したり,同種業者が仲間を作り,新規業者の開業を制限し,さらに領主に冥加(みようが)金・運上金を納めて株仲間の特権を認められるようになる。都市の問屋は周辺農村の仲買商に資金を前貸しして一定地域の生産物を,個人または組で独占しようとする動きも生じる。…
… 近世商人の主流は問屋,仲買,小売の形態をとり,それぞれ仲間を結成し,その多くは仲間人数を制限し,取引の独占を幕藩領主から認められるようになった。これを株仲間という。商人仲間の結成は取引を安定させるためには効果があったが,商品経済が進んでくると円滑な取引の阻害要因となった。…
…この闘争は国訴(こくそ)と呼ばれ,一国を超えた規模にまで広がり,ついに幕府は灯油の自由売買を認めるに至った。ただ幕府は,ひざもとの江戸では,問屋仲間の連合体である十組問屋をより強力な独占団体である菱垣廻船(ひがきかいせん)問屋仲間に再編成することに成功して,寛政改革以来の幕府の方針である株仲間のてこ入れ政策が大きな成果を収めたが,これも長続きはしなかった。その原因の一つには,関東一帯の江戸地回り経済が一段と発展し,新しい流通ルートがこれまでの都市商人の集荷機構をかく乱するという事態が激化してきたことがあげられる。…
…したがって運上と一括して取り扱われる例が多い。また,冥加は個人に対するものと商工業者の組合である株仲間に対するものとに分けることができる。江戸時代の田制,税制についての代表的な手引書である《地方凡例録(じかたはんれいろく)》によると,各種の運上と並んで醬油屋冥加永,質屋冥加永,旅籠屋(はたごや)冥加永の例が紹介されており,醬油屋冥加はその醸造高に応じて年々賦課し,質屋の場合は軒別に賦課し,旅籠屋冥加は飯盛女を置く宿屋に対して年々賦課した。…
※「株仲間」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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