コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

天童藩 てんどうはん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

天童藩
てんどうはん

江戸時代後期,出羽国村山郡天童地方 (山形県) を領有した藩。明和4 (1767) 年から織田氏が2万石で入封,文政 11 (1828) 年織田信義のとき,居城を天童に移し天童藩成立。以後廃藩置県にいたった。外様,江戸城柳間詰。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

藩名・旧国名がわかる事典の解説

てんどうはん【天童藩】

江戸時代出羽(でわ)国村山郡天童(現、山形県天童市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は養正館(ようせいかん)。1830年(天保(てんぽう)1)までは高畠(たかはた)藩と称した。藩主の織田(おだ)氏は、織田信長の次男信雄(のぶかつ)の子孫。1767年(明和(めいわ)4)に、上野(こうずけ)国小幡(おばた)藩の藩主織田信邦(のぶくに)が、不敬罪に問われた山県大弐(やまがただいに)の明和(めいわ)事件に連座して蟄居(ちっきょ)処分となり、養子の信浮(のぶちか)が2万石で置賜(おきたま)郡高畠へ転封(てんぽう)(国替(くにがえ))された。所領は陸奥(むつ)国信夫(しのぶ)郡、出羽国置賜郡、村山郡だった。その後信夫郡は収公されて村山郡に替え地され、1830年(天保(てんぽう)1)に城地も村山郡の天童に移し、天童藩が成立した。小藩のため藩財政は常に苦しく、幕末には下級家臣の内職に将棋駒づくりも始め、全国一の生産地となる基礎がつくられた。戊辰(ぼしん)戦争では、当初新政府軍の先導役を務めたが、庄内藩の攻撃を受けて城下町を焼き払われた。その後、逆に奥羽越(おううえつ)列藩同盟に加わって新政府軍と戦ったが降伏。1871年(明治4)の廃藩置県により、天童県を経て山形県に編入された。

出典|講談社藩名・旧国名がわかる事典について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

天童藩
てんどうはん

出羽(でわ)国天童(山形県天童市)周辺を領有した藩。外様(とざま)。1765年(明和2)、山県大弐(やまがただいに)らの明和(めいわ)事件で連座した上野小幡(こうずけおばた)藩主織田信邦(おだのぶくに)の養子信浮(のぶちか)は、2万石で出羽国置賜(おきたま)郡高畠(たかはた)に入部した(高畠藩)。所領は陸奥(むつ)国の信夫(しのぶ)郡、出羽国の置賜郡、村山郡にわたっていた。その後、領地は替え地によって村山郡に集められ、1830年(天保1)藩主信美(のぶかず)は城地を天童に移した。織田氏は織田信長の次男信雄(のぶかつ)の子孫である。以来信学(のぶたか)、信敏(のぶとし)が継ぎ維新を迎える。天童藩の領地はまとまりがなく、幕府領のほかいくつかの分領と入り組んだ分散状態となっている。藩は財政窮乏を救うため、幕末に紅花(べにばな)専売を計画したが、在地の抵抗もあって成功しなかった。下級武士の内職として将棋(しょうぎ)駒づくりを奨励し、その後の地場産業となったことは有名。戊辰(ぼしん)戦争では維新政府から奥羽鎮撫使(ちんぶし)の先導役を命ぜられ、中老吉田大八(だいはち)がそれを勤めたが、庄内(しょうない)藩の攻撃を受け、城下町は焼き払われ、大八は自刃した。のち奥羽列藩同盟に加盟したが、1868年(明治1)9月降伏。71年廃藩、天童県を経て山形県に入る。[横山昭男]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

天童藩の関連キーワード吉田大八(1)和字真名富山形[県]槙島錠之助織田寿重丸天童(市)山形(県)斎藤 有記宮城浩蔵織田信美織田信敏歌川広重織田信学織田信恒斎藤有記天童城高畠藩

今日のキーワード

大義

1 人として守るべき道義。国家・君主への忠義、親への孝行など。「大義に殉じる」2 重要な意義。大切な事柄。「自由平等の大義を説く」...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

天童藩の関連情報