出羽(でわ)国天童(山形県天童市)周辺を領有した藩。外様(とざま)。1765年(明和2)、山県大弐(やまがただいに)らの明和(めいわ)事件で連座した上野小幡(こうずけおばた)藩主織田信邦(おだのぶくに)の養子信浮(のぶちか)は、2万石で出羽国置賜(おきたま)郡高畠(たかはた)に入部した(高畠藩)。所領は陸奥(むつ)国の信夫(しのぶ)郡、出羽国の置賜郡、村山郡にわたっていた。その後、領地は替え地によって村山郡に集められ、1830年(天保1)藩主信美(のぶかず)は城地を天童に移した。織田氏は織田信長の次男信雄(のぶかつ)の子孫である。以来信学(のぶたか)、信敏(のぶとし)が継ぎ維新を迎える。天童藩の領地はまとまりがなく、幕府領のほかいくつかの分領と入り組んだ分散状態となっている。藩は財政窮乏を救うため、幕末に紅花(べにばな)専売を計画したが、在地の抵抗もあって成功しなかった。下級武士の内職として将棋(しょうぎ)駒づくりを奨励し、その後の地場産業となったことは有名。戊辰(ぼしん)戦争では維新政府から奥羽鎮撫使(ちんぶし)の先導役を命ぜられ、中老吉田大八(だいはち)がそれを勤めたが、庄内(しょうない)藩の攻撃を受け、城下町は焼き払われ、大八は自刃した。のち奥羽列藩同盟に加盟したが、1868年(明治1)9月降伏。71年廃藩、天童県を経て山形県に入る。
[横山昭男]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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