江戸中期の俳人。姓は炭(たん),別号は水語,不夜庵,三亭,宮商洞など。江戸の人か。俳諧は初め沾洲(せんしゆう)門の水国に学び,水語と号したが,1734年(享保19)水国が没し,やがて紀逸につく。48年(寛延1)太祇と改号,2年後の《時津風》には三亭太祇とあって,そのころ宗匠となったものと考えられる。51年(宝暦1)ころ京都に上り,翌年には五雲とともに九州におもむくが,5月にもどって京都に住みついた。まもなく道源と名のって仏門に入り,53年秋には大徳寺真珠庵にあった。しかし翌年には寺を出て,遊里島原に住む。妓楼桔梗屋の主人呑獅(どんし)がその門弟となり太祇を後援したので,太祇は島原を不夜城というのにちなんで,不夜庵を結んだ。この寺院から遊里への転身は,太祇の作風に大きな影響を与えている。56-57年のころ一時江戸に下って旧師紀逸と交わり,66年(明和3)には蕪村,召波らと三菓社を結んで,以後とくにすぐれた作品をよむようになった。69年には《鬼貫句選》を校訂して出版,70-71年には不夜庵一派の春興帖を刊行して意欲のあるところを示したが,71年8月,半身のなえる病によって没した。作風は豊かな詩才を感じさせ,とくに人事句に巧みであった。句集に《太祇句選》《太祇句選後篇》がある。〈行く女袷(あわせ)着なすや憎きまで〉(《太祇句選》)。
執筆者:山下 一海
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江戸中期の俳人。炭(たん)氏。初号水語(すいご)。別号不夜庵(ふやあん)、宮商洞、三亭など。江戸の人で、俳諧(はいかい)を初め水国、のち慶紀逸(けいきいつ)に学んだという。40歳を過ぎた宝暦(ほうれき)年間(1751~64)の初めに上洛(じょうらく)、やがて仏門に帰依(きえ)して法号を道源と名のり、紫野大徳寺真珠庵(あん)に入った。ほどなく、妓楼(ぎろう)桔梗屋(ききょうや)主人呑獅(どんし)の援助により島原遊廓(ゆうかく)内に不夜庵を結び住んだ。蕪村(ぶそん)と親密な風交を重ねた1766年(明和3)以降の6年間は意欲的に俳諧にかかわり、多くの佳吟を残す重要な時期となった。その人柄は無欲恬淡(てんたん)、温雅洒脱(しゃだつ)であった。俳風は人事趣味を得意とし、技巧的な趣向のおもしろさをもつものの、理詰めで深みに欠ける難もある。編著に『鬼貫(おにつら)句選』(1769)があり、作品は『太祇句選』(1770)、『太祇句選後篇(へん)』(1777)に収められている。明和(めいわ)8年8月9日没。墓所は京都市綾(あや)小路大宮西入ル光林寺。
[松尾勝郎]
行く程に都の塔や秋の空
『池上義雄著『炭太祇』(『俳句講座3 俳人評伝 下』所収・1959・明治書院)』
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… 本来中興諸家の俳風は多彩で,蕉風(蕉風俳諧)の目標も《虚栗(みなしぐり)》《冬の日》をとる者,晩年の《炭俵》調を選ぶ者とさまざまであったが,どの作家も純粋な感動を第一義とする点で一致し,運動の主力が地方系の伊勢派末流にあったことも起因して,平明で簡素な表現,写実的な形象性が重んじられ,繊細な感覚,清新な抒情,自然美の再発見も求められた。なかでも江戸座に近い蕪村は其角らの風も学び,知巧的で自在な表現を加味して高雅で浪漫的な美を追求し,同じ京の太祇も都市風の人事句に洗練を見せ,改革が地方系のみでなく都市系からもなされたことを示した。また運動の背景には儒学の徂徠派や国学における古学尊重の風潮があり,これが招来した漢詩文や文人趣味の流行も影響して,俳諧に古典的色彩や雅文学志向をもたらした。…
※「太祇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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