千住(読み)せんじゅ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

千住
せんじゅ

東京都北東部,荒川区東部から足立区南部にわたる広域の地区。江戸時代日光街道下りの最初の宿場町として栄え,明治以後も街道筋と駅付近は商業が盛んであった。周辺は商業・工場地帯。隅田川を隔てて荒川区側を南千住,足立区側を北千住と呼ぶ。江戸時代には小塚原刑場があり,地区内の回向院はその死者と 安政2(1855)年の安政江戸地震の被災者を供養する。

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百科事典マイペディアの解説

千住【せんじゅ】

東京都足立・荒川両区にまたがる地区。荒川と荒川放水路に囲まれた地区は現在の足立区北千住で,江戸時代,奥州道中の第1番目の宿場千住宿としてにぎわった。常磐線北千住駅などがあり,商工業地,住宅地千住大橋で結ばれる荒川の対岸は現在の荒川区南千住で,隅田川貨物駅などがある。
→関連項目足立[区]元禄の大火

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世界大百科事典 第2版の解説

せんじゅ【千住】

荒川(隅田川)曲流部沿岸(現,東京都足立区南部,荒川区東部)に位置する低地部の地名。古くは千寿とも表記した。その由来には,荒川から拾得された千手観音像にちなむとの説(《新編武蔵風土記稿》)などがある。史料上の初見は1279年(弘安2)。鎌倉初期以降,奥州方面への運輸交通の要地として荒川北岸に発達し,武蔵国足立郡に属して一村を成していたと推定される。戦国期に後北条氏の支配下に入り,その家臣で江戸衆の千葉氏所領となる。

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大辞林 第三版の解説

せんじゅ【千住】

東京都足立区南部から荒川区東部にかけての地。商工業地区。江戸時代、奥州街道の宿場町。

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日本の地名がわかる事典の解説

〔地域名〕千住(せんじゅ)


東京都足立区・荒川区にまたがる商工業地区。
隅田川を境に足立区北千住と荒川区南千住に分かれる。日光街道第1番目の宿場に定められ、江戸四宿の一つとして繁栄。北千住駅前は商店街。近年では東京藝術大学などの大学キャンパスができ、学園都市の性格も強める。

〔東京都〕千住(せんじゅ)


東京都足立(あだち)区・荒川(あらかわ)区にまたがる地区。隅田(すみだ)川を境に足立区北千住と荒川区南千住に分かれる。江戸時代初期、日光(にっこう)街道第1番目の宿場に定められ、江戸四宿の一つとして繁栄した。現在は住宅地と商店街・工場地区が混在する。北千住駅はJR常磐線・東武鉄道伊勢崎線・地下鉄各線などが集中する東京北東郊の交通拠点で、周辺は商業活動も活発。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

千住
せんじゅ

東京都区部の北東、隅田(すみだ)川を境として南の荒川区から北の足立(あだち)区に広がる地区。古くは千寿、千手と書いた。足立区千住2丁目にある勝専(しょうせん)寺の千手観音が地名の由来というが、足利義政(あしかがよしまさ)の愛妾(あいしょう)「千寿の前」の生地であるとか、千葉氏の居住により千葉住村と称したなどの説もある。日光街道(奥州街道)の第一番目の宿として栄えた千住宿(じゅく)は、1661年(寛文1)に足立区千住から千住大橋を越えて荒川区の南千住に拡がった。江戸四宿の一つである。現在も北千住駅はJR常磐(じょうばん)線、東武鉄道伊勢崎(いせさき)線、東京メトロ千代田線・日比谷(ひびや)線が集まり、駅周辺は中心商店街を形成している。南千住は回向院(えこういん)、小塚原(こづかっぱら)刑場跡、もと上野の寛永寺の正門であった黒門が立つ円通(えんつう)寺などで知られる。また官営工場としての千住製絨(せいじゅう)所跡が東京スタジアムとなったが、現在は跡地の大部分が荒川総合スポーツセンターとなっている。[沢田 清]

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