荒川(隅田川)曲流部沿岸(現,東京都足立区南部,荒川区東部)に位置する低地部の地名。古くは千寿とも表記した。その由来には,荒川から拾得された千手観音像にちなむとの説(《新編武蔵風土記稿》)などがある。史料上の初見は1279年(弘安2)。鎌倉初期以降,奥州方面への運輸交通の要地として荒川北岸に発達し,武蔵国足立郡に属して一村を成していたと推定される。戦国期に後北条氏の支配下に入り,その家臣で江戸衆の千葉氏の所領となる。江戸期は幕府直轄領。1594年(文禄3)荒川に千住大橋が創架されたころから町場化が進み,1625年(寛永2)奥州街道,日光道中(千住~宇都宮間の17宿が重複)の初宿に指定された。以来,公用貨客を運送する伝馬役,歩行(あるき)役を負担し,その代償として地子免除などの特権を与えられた。当初は千住1~5丁目の5町(のちに本宿と呼称)であったが,万治年中(1658-61)まず掃部(かもん)宿,河原町,橋戸町の3町(新宿,足立郡)を,次いで荒川南岸の小塚原・中村両町(南宿,豊島郡)を加宿とし,この10町を千住宿と称した。江戸四宿のうちで最長の町並みの宿場となり,幕末には家数約2300軒,人口約1万人を数えた。千住1丁目に問屋場,伝馬寄場,高札場,一里塚などがあり,同3丁目に本陣と脇本陣が1軒ずつおかれていた。このほか宿内には一般の旅籠屋や各種の商店,飲食店が軒を連ね,将軍の日光社参や仙台藩はじめ三十数藩の参勤交代の行列,一般旅客の往来,さらには新河岸川,荒川水運の盛行などで活況を呈した。なかでも小塚原・中村両町は千住宿の加宿となった直後から飯盛女を抱えた旅籠屋が繁盛し,一時期そのにぎわいは吉原をしのぐものがあったという。
執筆者:大石 庄一
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東京都区部の北東、隅田川(すみだがわ)を境として南の荒川区から北の足立(あだち)区に広がる地区。古くは千寿、千手と書いた。足立区千住2丁目にある勝専(しょうせん)寺の千手観音が地名の由来というが、足利義政(あしかがよしまさ)の愛妾(あいしょう)「千寿の前」の生地であるとか、千葉氏の居住により千葉住村と称したなどの説もある。日光街道(奥州街道)の第一番目の宿として栄えた千住宿(じゅく)は、1661年(寛文1)に足立区千住から千住大橋を越えて荒川区の南千住に広がった。江戸四宿の一つである。現在も北千住駅はJR常磐(じょうばん)線、東武鉄道伊勢崎(いせさき)線、東京地下鉄千代田線・日比谷(ひびや)線、つくばエクスプレスが集まり、駅周辺は中心商店街を形成している。南千住は回向院(えこういん)、小塚原(こづかっぱら)刑場跡、もと上野の寛永寺の正門であった黒門が立つ円通寺(えんつうじ)などで知られる。また官営工場としての千住製絨(せいじゅう)所跡が東京スタジアムとなったが、現在は跡地の大部分が荒川総合スポーツセンターとなっている。
[沢田 清]
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… 日本のネギの品種は冬季の休眠性により分類される。冬季に葉が枯れて休眠する加賀系の夏ネギ型,冬季にも休眠せずに生育を続ける九条系の冬ネギ型,さらにやや地上部が枯死はするが,完全には休眠しない中間型の千住系などがある。また,土寄せによって行う軟白には寒冷な気候が適するため,葉鞘部を長く白く仕上げる根深ネギは関東,東北,北陸,北海道などで多く生産される。…
※「千住」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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