江戸中期の儒者、漢詩人。名は煥図(かんと)、字(あざな)は東壁、号は東野、通称を仁右衛門。黒羽藩の藩医大沼玄佐の子として下野(しもつけ)国(栃木県)那須(なす)に生まれる。幼くして安藤氏の養子となり江戸に移る。初め中野撝謙(なかのきけん)(1667―1720)に学び、のち荻生徂徠(おぎゅうそらい)に入門し、儒者となった。甲府侯柳沢吉保(よしやす)に仕えたが、1711年(正徳1)29歳で病のため辞職した。山県周南(やまがたしゅうなん)とともに徂徠の最初期の門人で、徂徠の提唱した古文辞(こぶんじ)が流行したのは、東野と周南の活躍によるところが大きいといわれる。享保(きょうほう)4年4月13日没。享年37。貧しく子もなかったので、友人によって浅草の福寿院に葬られた。没後30年、『東野遺稿』(1749)が刊行された。
[揖斐 高 2016年4月18日]
『松下忠著『江戸時代の詩風詩論』(1969・明治書院)』
江戸中期の儒者,漢詩人。名は煥図(かんと)。字は東壁。通称は仁右衛門。下野(しもつけ)那須の人。早くから江戸に出て儒学を学び,柳沢吉保に仕えた。同じく柳沢家に仕えていた荻生徂徠に1706年(宝永3)ころ入門し,以後徂徠が儒学界に名声を確立してゆくのをかたわらにあってよく助けた。山県周南と並んで徂徠のもっとも古くからの門人で,やがて18世紀中期に全盛期を迎える古文辞派(徂徠学派)の漢詩人たちの先輩格に当たる。奔放な人柄が官仕の生活になじめず,11年(正徳1)柳沢家を致仕した。徂徠はその人柄を愛していたので,37歳の若さで没した時には深く惜しんだ。詩文集に《東野遺稿》(1749)がある。
執筆者:日野 竜夫
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