黒羽藩(読み)くろばねはん

百科事典マイペディアの解説

黒羽藩【くろばねはん】

下野国那須郡黒羽(現,栃木県大田原市)に政庁(黒羽城)を置いた外様小藩。藩主は近世を通じ大関氏。大関氏は中世以来那須郡に本拠を置く有力国人で,戦国期には那須氏の重臣の一。1590年主家に先んじて豊臣秀吉に下り,本領1万3000石を安堵されて近世大名へと転身した。その後数度の加増分知を経て1664年の領知目録では,藩領は那須郡64ヵ村・1万4338石余,芳賀郡6ヵ村・3661石余の1万8000石。黒羽藩領のほとんどは中世以来の本領で,地方知行制も続いたが,正保年間(1644年−1648年)以降の上級給人の召放・減禄,1660年からの給人知行地内部の検地,1665年の金丸氏ら公知(こうち)衆の立退き,1679年からの全領検地強行などで,藩体制の確立をみた。いっぽう宝暦年間(1751年−1764年)からは藩財政が窮乏,1762年藩主の世子増備(ますとも)は《政事改正考》を著して財政危機打開の新組織構造を打ち出したが,実現されずに終わった。1768年には農政家鈴木武助が郷方改役に任じられて藩財政の実務を担当,1811年からは藩主増業(ますなり)による財政改革が進められた。だが増業のとった有力商人と結ぶ積金制度は藩の借財を増加させることとなり,1824年増業は家臣により隠居に追い込まれている。1861年藩主となった増裕は軍制改革等を推進する一方,幕府の陸軍奉行海軍奉行若年寄に進んだ。だが1868年増裕は急死。藩は戊辰戦争の際には新政府軍の先兵となった。

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

くろばねはん【黒羽藩】

江戸時代下野(しもつけ)国那須郡黒羽(現、栃木県大田原市前田)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は何陋館(かろうかん)、作新館。藩主の大関氏は、中世以来、豪族那須氏の有力な国人(こくじん)だった。豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐に大関高増(たかます)・晴増(はるます)の親子が参陣、本領地1万3000石が安堵(あんど)された。関ヶ原の戦いでは東軍に与して徳川家康(とくがわいえやす)から加増され2万石の大名となった。以後明治維新まで16代にわたり存続、この間、分知(領地分割)により表高(おもてだか)は1万8000石だった。幕末期の藩主大関増裕(ますひろ)は、陸軍奉行、海軍奉行、若年寄などを歴任した。戊辰(ぼしん)戦争では新政府軍の先兵となった。1871年(明治4)の廃藩置県により、黒羽県、宇都宮県を経て、73年栃木県に編入された。

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世界大百科事典 第2版の解説

くろばねはん【黒羽藩】

下野国(栃木県)那須郡黒羽に藩庁をおく外様小藩。藩主は大関氏。大関氏は中世以来の北関東の名家那須氏に仕える有力国人層の出自。大関高増・晴増父子は豊臣秀吉の小田原征伐のとき,いちはやく秀吉に参謁し,本領地1万3000石が安堵された。その後,加増・分知の変動があったが,1664年(寛文4)には藩主増栄(ますなが)に1万8000石の朱印状が交付された。藩政の確立は寛文検地を基礎にした増栄の治世期に推進されたが,鹿子畑(かのこばた)左内の登用,65年の金丸・松本・津田ら最有力家臣の黒羽退去,左内の失脚,給人29人の血盟徒党などの混乱が続き,ために兵農分離と石高制の実現,給人地方知行制の廃止は,それからなお20年をまたなければならなかった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

黒羽藩
くろばねはん

下野(しもつけ)国(栃木県)黒羽に居所を置いた外様(とざま)小藩。常陸(ひたち)の土豪出身といわれる大関氏は戦国時代末期には、大田原氏と並んで北那須(きたなす)衆を代表する有力豪族に成長していた。1590年(天正18)豊臣(とよとみ)秀吉の小田原攻めに際し、大関高増(たかます)・晴増(はるます)の親子は、宗家那須氏の態度が定まらぬうちに、北那須衆を伴って参陣し、旧領1万3000石を安堵(あんど)された。関ヶ原の戦い後、1600年(慶長5)と02年に加増され、下野国那須・芳賀(はが)郡、陸奥(むつ)国石川郡内で2万石を領有した。晴増のあと増勤(ますのり)まで16代、約300年間、一貫して旧領を維持し続けた関東では希有(けう)の旧族大名となった。1646年(正保3)増親(ますちか)のとき弟2人に1000石ずつ分知したので表高1万8000石となった。
 寛文(かんぶん)・延宝(えんぽう)期(1661~81)に実施した領内総検地で藩士地方知行(じかたちぎょう)の制限と実高増大を行い、藩体制を確立したが、その後、領内農村の衰微が著しく、明和(めいわ)~寛政(かんせい)期(1764~1801)には家老鈴木為蝶軒(いちょうけん)、化政(かせい)期(1804~30)には藩主増業(ますなり)の改革が実施されたが、領内の荒廃と財政の窮迫は改善されなかった。増業編纂(へんさん)の『創垂可継(そうすいかけい)』(1817)は藩政資料を集大成して藩治の指針としようとしたものであった。1862年(文久2)に家督を継いだ大関増裕(ますひろ)は、百事一新、富国強兵と称して藩政改革を断行、幕閣にあっても講武所奉行(ぶぎょう)、陸軍奉行、若年寄(海軍奉行兼任)を歴任した。戊辰(ぼしん)戦争で官軍の先兵となり、1869年(明治2)賞典禄(ろく)1万5000石を与えられた。71年廃藩、黒羽県、宇都宮県を経て、73年栃木県に編入。[阿部 昭]

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