唐は安西都護府のもとに亀茲(きじ)(クチャ),于闐(うてん)(ホータン),疏勒(そろく)(カシュガル),焉耆(えんき)(カラシャフル)の4都督府を置き,あわせて鎮守軍を同地に駐留させて西域の統治にあたらせた。四鎮は,これら鎮守軍の総称。679年に,焉耆に代わって砕葉(さいよう)が四鎮の一つとなったが,719年,テュルギシュ(突騎施)に占領されたため焉耆に復した。安史の乱後,吐蕃(とばん)の侵略にあい,唐の中央アジア軍事支配も終焉を迎えた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
中国、唐の西域統治機関である安西都護府に属した四つの都督府。唐は640年に高昌(こうしょう)(トゥルファン)を滅ぼして安西都護府を置いたが、648年に西方の亀茲(きじ)(クチャ)を下すと、同都護府をここに移し、その下に亀茲、于闐(うてん)(ホータン)、疏勒(そろく)(カシュガル)、焉耆(えんき)(カラシャール)の四鎮を設けて軍隊を駐屯させた。安西都護府は670年吐蕃(とばん)の手に落ちたが、唐はまもなくこれを奪回し、さらに679年西部天山山脈北麓(ほくろく)、チュー川上流の砕葉(さいよう)(スイアブ、いまのトクマク付近、アク・ベシム遺跡)を占領して、これを四鎮に加え、焉耆を廃した。しかし、西突厥(とっけつ)の一部突騎施(とっきし)(トゥルギシュ)が強大となって703年ごろ砕葉を占領したので、唐はこれを放棄し、ふたたび焉耆を四鎮の一つとした。安史の乱後、吐蕃が甘粛(かんしゅく)地方を占領したが、四鎮はなお本国と連絡を保ち、790年ごろ吐蕃に滅ぼされた。
[護 雅夫]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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